2021年1月14日木曜日

続・死生論 5

 ②の死の欲動について

興味深いことに、ホフマンはこの文脈でのフロイトの考察をほとんど重要視していない。いかにも生物学的な宿命としての死が本能であるという議論はそれを主観的に体験する人間の姿を具体的には何も反映していないということだろうか。私も同様の感想を持つ。ということで

③構造論的観点。

ホフマンは無意識がエスという一つのシステムとしての意味を持つようになったことが、フロイトの死生観に一つの進歩をもたらしたと言っているようだ。多くの論者がその点をあまり理解しない中でPollock は特筆に値するという。Pollock はこのブログでも一度読んだ。こんな結論だった。「彼の論文は、要するに不死の世界とユートピアは平衡関係にあるというが、どちらにも共通していることは、「儚さ」の否定であることだ。そう、儚さの対極にあるのは不死であり、ユートピアということを言っていた。」この論文は無時間制ということで結局は時間のファクターを扱っているということである。

さてこの調子でホフマンの理論を振り返ろうとしたが、この③が延々と続くのである。そこで本題である④を先に見よう。

ここには私の論文にすぐにでも引用できるような文章が書かれている。フロイトは明示的にではないが、死についての議論を実存的なレベルで扱っているという。そこでのキーワードは喪の前触れ foretaste of mourning という概念だ。そこでは明示的には愛する対象の喪について論じていながら、事実上自分の死についても論じているという。つまりこれは死生論なのだ。

ホフマンの文章は依然としてわかりにくいが、要点はこうだ。まず実存的な姿勢は、人が有限性に直面した時に生じる価値の問題について扱うという姿勢であることは、ベッカーなどの本からも明らかだが、フロイトにもその傾向が垣間見られる。それがこの④に描かれている彼の理論だ。なぜなら移ろいやすさ、ないしは無常ということ(英語ではともにtransience)という言葉が時間性を含んでいるからだ。そしてそのことはフロイトのそれ以外での機械論的な議論とは一線を画している。

ただそれによってフロイトは実存主義を超えた、ということはとてもできないとホフマンは言う。そしてここも強調されている点だが、(ホフマン、拙訳、p.95)フロイトは有限性について3つの態度を個別に述べているが、それらが共存するという実存的なあり方をしっかり論じていない。つまり花がいずれ枯れてしまうということを認識することは、物事の価値を奪う恐れと、高める可能性の両面を含んでいるという実存的な体験の在り方をとらえてはいないというわけだ。それぞれがあたかも別々に扱われている。それがフロイトの「諦めればいいじゃん」というあっけらかんとした態度に表れている。もう少しわかりやすく言うと、儚さには、二つの態度が別個に描かれている。

l  詩人:花はやがて枯れてしまうから悲しい。

l  フロイト:そのことを前提としたら、つまり永遠の美を諦めたら、花は逆に希少価値となり、今を輝くだろう。それを享受しなくてどうする?