2021年1月13日水曜日

続・死生論 4

 そこでホフマンの「儀式と自発性」の中の死に関する章をあらためて読んでみる。第2章「精神分析理論における死への不安と死すべき運命への適応」だ。そこには結局精神分析においては喪mourning に関する文献は多いが、死の問題についての論文は非常に手薄であるということが書かれている。そしてそのうえでホフマンさんはこう言う。結局フロイトは死生論についてあまり明確なことは言わなかったが、それについての記述は以下の4つの文脈であるという。それらは

    局所論的モデルからの観点

   死の欲動の観点

   構造論的観点

   「無常について」に見られる「実存的」観点。

つまりフロイトはそのライフステージや理論的な変遷に伴い、言うことが変わってきたということだろう。そこで①について。有名な「人間は自分の死を想像できない。だから無意識は不死を信じている」という提言がこれに該当する。これについてホフマンはさまざまな矛盾点を指摘する。そもそも「死を想像できない」ことがどうして、「無意識は不死を信じる」ということにつながるのかという理論的な根拠がない。それに無意識は無時間的であるというフロイト自身の言葉に反するではないか。時間がないのであれば「不死」つまり未来永劫生き続ける、ということも想像できないはずだ。だから結局無意識は死すべき運命も、不死についても、両方を含みうるのではないかというのがホフマンの主張である(p79)。確かこのホフマン説にも一理ある気がする。(ただし「不死でありたい」という願望はどうだろうか。それは非現実的だから抑圧されるであろう。そしてそれがフロイトが言いたかったことではないだろうか、と私は思う。)そしてもう一つ、フロイトは死すべき運命は自己愛にとっての打撃だ、という言い方をしている。つまりは結局は人は自分の死を想像できているじゃん、ということになる、とホフマンは言う。これもその通りだと思う。そしてさらにホフマンは、このフロイトの疑わしき考えをOtto Fenichel Kurt Eissler を含むその弟子たちはそのまま継承しているではないか、と憤慨している。

さて私はこの議論はあまり重要ではない気がする。第一「無意識では人間は●●を信じる」という提言自体が昔のような意味を失っている。率直なところ、フロイトが考えていたような「無意識」は存在しないからだ。無意識的なものはその存在を直接証明する方法はない。だから症状や失策行為や行動化により間接的に示されるものから判断するしかないが、それは非常に蓋然的である。「治療時間に遅れてきた患者は、治療者への無意識的な敵意の表れである」、という風に。しかしこれは正確には証明のしようがない。偶然ではないか、それ以外の無意識内容の反映(例えば治療者に一刻も早く会いたいという気持ちへの反動形成)ではないか、などと他の様々な解釈の仕方が存在してしまう。ただし記述的な意味での無意識はある。「~について考えないようにしている。」という意味で「~は無意識化されている」と言うことは出来ることは断っておきたい。ただしその場合に問題となるのは抑圧ではなく「抑制」である。そしてその意味で無意識にあるのは、どう考えても「自分は死すべき運命になる」ということだ。これは2週間ほどかけて読んだエルンスト・ベッカーの「死の否認」という本が雄弁に物語っていたことである。

ところで注目すべきは、「自分は不死でありたい」ということも無意識的になりうるということだ。なぜならこの願望は意識化されるとたちまち「何を馬鹿なことを考えているんだ」と否定されるので意識野に追いやられるからだ。このように考えるとフロイトの「無意識は不死を信じる」という定式化は、全くの間違いではないが、むしろその逆の方が経験に近いのではないか、という考え方が最も理屈に合っていると思う。それだけのことだ。フロイトはこの提言を厳密に考察を加えて行っているとは思えない。