2021年1月15日金曜日

続・死生論 6

 ところが人間は実存的な存在であるというキルゲゴールのような立場からは、フロイトの立場はあきらかに強がりであり、無理であるというわけだ。つまりジレンマを扱っていないという意味で。

しかし私の見解では、そのことをやがてフロイトは気が付いた。それは喪は完遂出来る→それは永遠に終わらない作業である、という立場の変遷である。そしてその結果として至ったのは、「喪失からくる精神的な苦痛を回避しないこと、それに直面することが人生に喜びを与えるのだ」というフロイト自身の結論だったというわけである。それが先日読んだSchimmel の結論でもあったのである。ようやく少し光が差してきた感じだ。忘れないうちに書き留めておこう。私の立場は結局Schimmelの立場に近くなる。

   フロイトの実存的な死生論は結局「儚さ」に表れていた。そしてそれは「戦争についての時評」、「悲哀とメランコリー」に一連に流れるテーマとして扱われていた。そしてそれは時間性の観点をフロイトが導入したことが重要であり、おそらく無意識の無時間性という考えは事実上の意味を失った。というより無意識に時間を導入することでフロイトの死生論は意味を持つようになった。

   その意味でベッカーのフロイト批判は肝心な点を見逃していると言える。それは「儚さ」について論じていないということだ。

   残された問題点は、それをフロイトがなぜ「美」と結びつけたのか。この点は日本における死生観や儚さそのものへの美とどのように結びつくのか。それはある種の現実を一瞬で表す、象徴化の力によるものではないか。そしてそれはフロイトの芸術論とどのようにかかわってくるのか。

   もう一つの問題点としては、この点が降伏surrender とどのようにかかわるのか。

 ところで人はどうしてあるものを失いかけた時にその価値が分かるのだろうか。亡くなって初めていかにその人を必要としていたかが分かるように。配偶者をなくしてそれを悼んでいる際に、心に思い浮かぶ配偶者の思い出はおそらく優れた芸術作品と接した時の感動に似ている。優れた音楽を聴いて遠い過去の思い出がよみがえってくるという風に。優れた芸術作品の特徴はそれが心に焼き付き、取り入れられ、しかしそれがとても十分ではないので再びその作品の前に立つという行動を起こさせることだ。何度もそれを見に行くのは、それを何度も取り入れなおすからであろうし、見に行くたびに新たな発見があり、それにより心の中のその作品のイメージがより確かなものになっていくのだろう。そのような作業を起こさせるのが芸術作品であるとするならば、それはあたかも喪の作業を起こさせるような力を有しているということになるだろうか。

花がやがて目の前から消えるとわかっている時、私たちはそれを心に一生懸命しまい込もうとする。それが芸術作品を見てそれを心が一生懸命取り入れる作業と似ているのだ。