2021年1月24日日曜日

続・死生論 15

 ところでこの文脈でSchimmel の論考を振り返っておくのは重要である。(Paul Schimmel (2018) Freud’s “selected fact”: His journey of mourning. International Journal of Psycho-Analysis, 99(1):208-229)フロイトの「悲哀とメランコリー」は、従来はフロイトがその一部を破棄したとされるメタサイコロジーの一連の論文の一つとされると考えられていたが、それとは異なる見解を示す。それはこの論文が「戦争への失望と私たちの死への姿勢」(1915)や「戦争に関する時評」(1915)や「儚さ」(1916)と一緒に分類されるべきであり、それらはフロイトがそれまでのリビドー論から抜け出した新たな境地を示しているという。そしてそこには第一次大戦からの影響が大きかったという。彼の楽観的な考えをよそに戦争は拡大し、彼の長男のエルンストも徴兵され、フロイト自身もうつ状態に陥る(p216)。論者によってはそれはユングとの決別にまでさかのぼるとする(p225)。「私たちの死への姿勢」(1915)でフロイトは、死の現実を認め、受け入れることで人生はより充実し完全なものになると書いている。The recognition and acceptance of the reality of death allows life to become fuller and more complete.「儚さ」の論文に出てくる詩人は実はメランコリーに陥っていたフロイト、喪の作業を行えないでいたフロイトであり、それに語り掛けたフロイトは失われたものを乗り越えて新たなるリビドーを獲得した喪についての理論を打ち立てたフロイトをあらわしているともいえるという(P.217)。

Schimmelはフロイトが発見したのは、「喪の中心テーマは、喪失による精神的な苦痛を耐える能力こそが、心的な現実に向き合い続けるための条件である」ということであり、これこそが彼が臨床的な現実から出発した発見であると述べる。The centrality of mourning, that is the capacity to tolerate the psychic pain of loss, as a condition for maintaining contact with psychic reality, is a clinical fact.(Schimmel, p.225) 

もし彼が言うとおり、フロイトが精神性的なテーマに代わる大きなテーマを確立したのであれば、Beckがあれほど批判したフロイト理論の非実存主義的な性質は、喪の理論により超えられていたともいえよう。

このSchimmel の主張に私が付け加えたいのは、フロイトは対象喪失の問題を通して、おそらく自分の人生に対する喪の作業を含んだメッセージであったということである。そしてそこで描かれているtransience の意味は彼によっては大きく取り扱われてはいないが、これが死生学thanatology と関係し、そこに美の要素が加わって論じられているということである。Schimmel が述べている、フロイトのメッセージ、すなわち喪失による精神的な苦痛を耐える能力とは、端的にフロイトが自らが死すべき運命であることを知るべきだという主張について述べているようにも思える。