2021年1月23日土曜日

続・死生論 14

 スラビンさんの論文はとても重厚で、でも感覚的な筆致である。詩的、と言ってもいい。Psychoanalytic Dialogue という専門誌の性質だろうか。この論文で私が学んだのは、要するにホフマンのいう構築主義的弁証法のテーマは、死生論を超えているということである。スラビンさんはホフマンの立場をuniversal features of the human condition と呼ぶ。そしいて人が知性を得て抽象的な思考を操れるようになることで払わざるを得なくなった代償は私たちが有する有限性 finitude だが、それは自分という意識がいずれは消える、対象はやがて失われるという儚さ transience だけでなく、いくら他者がいても私達は孤独だということも同様に含まれるということだ。安永浩先生のパターンのA面、B面のように、生と死、自己と他者という関係性は図と地の関係にある。片方を体験するとき、もう片方はどうしても意識外に消えるのだ。例えば他者とつながったと感じるときにその他者が自分を(あるいは自分がいつその他者を)いつ裏切るかわからないという考えは浮かばないことになっている。(というかAをそのものとして純粋に体験するときにBは入り込めない)という性質を持つ。そして人間が知性を持つということはこのBがいつ何時襲ってくるかわからないということだ。これをフロイトは「喪の味見 foretaste of mourning 」と表現したのだが、このような心の動きをそのままホフマンは「構築主義的弁証法」と名付けているのだ。

スラビンさんがこれをどうして美と結びつけたかについての説明はよく分からないが、おそらく authenticity と関係しているのだろう。あるものを真正なものとして体験している時、そこには欺瞞が可能な限り捨象されているはずだ。では何が真正さかといえば、人間の有限性finitude ということになる。それが美の感覚につながるというのが一つの仮説として成り立つであろう。死を覚悟した人生の処し方はある種の一貫性や透明さ transparency を有するが上に、美的な価値を生む。