2021年1月25日月曜日

続・死生論 16

 最後に必読文献Tammy Clewell (2004) “Mourning Beyond Melancholia: Freud’s Psychoanalysis of Loss.” Journal of the American Psychoanalytic Association 52.1 (2004): 43-67. を読む。この論文の主張は、Schimmel とも少し違い、フロイトの意見は「悲哀とメランコリー」や「儚さ」(1917)の時代から、「自我とエス」(1923)の間にある変化を遂げたということを強調している。それは「喪の仕事は完結する」という立場から「決してそれは起きない」という変化である。もう一つは前者では同一化はメランコリーで生じることとされていたが、後者ではそれは喪における重要なプロセスであるという主張の変化があったということだ。そして後者を自我の「哀歌調elegiacの構成」と呼び、そこでは対象備給の沈殿物precipitate of abandoned object-cathexes が自我を構成しているとする(p.52)

そして対象は記憶になるのだが、そのために過剰想起hyperrememberingが起きるのだという(p.44)

しかし文中では「儚さ」ですでに喪のプロセスがそう簡単にはいかないことの認識を示した最初の論文でもあったとも言っている(p.58)。「悲哀とメランコリー」ではフロイトは喪は完遂すると言っていたが、「自我とエス」では一生続くという意見に代わっている(p.61)。ということは「儚さ」は両方の論文をつなぐ橋となるような意味を持つのか。実際に「儚さ」(1916)は「悲哀とメランコリー」が書かれた数か月後に、戦争が始まって15か月後に書かれたというのだから、まさに過渡期の考えがそこに詰まっているということだろうか (p57)