2021年1月20日水曜日

続・死生論 11

 閑話休題。一つ書き留めておきたいことがある。人の(動物の?)中枢神経は、対象を内在化する際に一種の興奮や快感を生むらしい。シナプスによる連絡が形成されることは一種の快を伴う。ヘッブ則(いくつかの神経細胞は、それが同時に興奮することでそれらのシナプス結合が強化されるという法則)には快感というバックアップシステムがなくてはならない。そしてそれが幼少時にプルーニング(剪定)を伴う連合ネットワーク association network (AN)が形成されていく際は、もうそれ自身がとても快を生むために極めて自然に進行していく。人が母語を覚える過程などはそれである。だからどんなに怠惰な子供でも言葉を覚えるのが面倒くさいので話せない、ということが生じない。そしてこのことはそのまま内在化のプロセスにおいても生じる。

さて目の前の美しいがやがて消えてしまう運命にあるもの、例えば美しい花は、それが内在化される(というか、その体験を覚えておく)プロセスが伴うために大きな快を含むのではないか。対象を知覚し、感じ取る時にすでに内在化は生じ、ANが盛んに形成されていく。美しいメロディーはそれが脳の中のコピーをより詳細に、鮮明にするというプロセスでANがさらに詳細に形成されるので快感を呼ぶ。しかしそれがもう直接体験できないと感じると、それを心に保存し、つなぎ留めておかなければ、と焦るからだ。対象を「不在モードで」(つまりいずれはなくなるのだ、と思いつつ)体験するとそれだけ感動が伴い、それが美の感覚や芸術的な価値として体験される。美とは要するに快感原則なのだ。

ある何の変哲もない(と多くの人が感じる)壺を見て快感を得るとしたら、その人にとっては芸術や骨董としての価値を持つであろう。そしてその時のその対象はフラクタル的に映るのだ。すなわちどのような細部を眺めても、そこにはそこで新たな奥深い世界が展開するために見飽きないのである。

さて喪の作業においては目の前の対象は半ば、あるいはすでに永遠に消えている。愛犬をなくして悲しみに暮れても、やがて心の中の愛犬の思い出だけで何とか耐えられるようになり、喪の作業は完成に一歩近づく。もう対象に直接触れて新たなANの形成を体験する機会は永遠に失われた。でも心の中の内在化された愛犬を子細に眺めて楽しむことができる。でもその内的対象は残念ながら新たなANを積極的に与えてはくれない。だから人は再び外に新たな対象を求めるようになる。

では自分自身の喪の体験、すなわち死すべき運命の受容の体験はどうだろうか?このような脳内のプロセスを考えることは、喪と美との関係を知るうえで少しは役に立つのではないだろうか。