2020年12月30日水曜日

死生論 28

 昨日の話をもう少し続けよう。私自身不思議に思っていることがある。私は目標を持って生きていると思う。たとえばAという夢をかなえたい。ではどうしてAなのか?私のAはほかの人に話しても「ふーん」で終わりである。「それは素晴らしい」、「私もそれをかなえたい」、という反応は普通は聞かれない。そんなことになんで時間と労力を使うの、という反応を受けるのがふつうである。(だから人に話すことはあまりない。)ではその人に人生の目標を聞いてみると、それ(Bとしよう)はたいてい私にとってはどうでもいいことなのである。そして人それぞれがA,B,C・・・という異なる目標を持つからこの世は平和に成り立っているというところがある。例えば多くの人がAを共に目指していると、それなりにいいことはあっても、たいていは過酷なライバル同士の競争が生じるだろう。
 ここで不思議なことは、私にとってのAはとても大事で、それに対する faith を持っているということなのだ。私にとっては絶対に感じられるし、そこに価値を見出している。それは自分が生きている、ということと関係しているという感覚を持つ。Aに価値を見出さないのは、物事をちゃんと判断していないからだとさえ思う。自分のように正確に物事をとらえたら、必然的にAを目指すであろうと思っているところがある。そしてもちろん、それは私自身の思い込みであろうということは知っているのだ。これは明らかにパラドックスだ。でもこのことを人はあまり考えずに生きているようだ。自分の目指しているものこそ、本当は価値があるのだ、と思い込む。それはフロイトにしてもそうだった。

 フロイトは性愛理論に対してfaith を持っていた。だからあれほど力強くそれを主張し、それを信じないユングやフェレンチ、その他大勢の弟子たちと袂を分かった。自分の性愛理論の誤りのために寂しい思いをしているとは考えなかったのだ。それは彼がその理論に faith を持っていたからだろう。

人は「これは確かなことだ」と思えることがあり、それに向かって生きる。それに近づいているという感覚が得られればそこに生きがいが生まれる。生きがいを感じるということは、ある意味では死から一歩遠ざかるとともに、そこに向かっているという性質を持つ。なぜなら「これをすることで、死ぬときに感じる後悔が少しなくなる」と思うことが出来るからだ。

私はA以外のこと、例えば一日中ゲームをしたり、山登りをしたりすることはないだろう。もちろんそれが生活費を稼ぐ手段であるならば別だが。それらのことをやっていると必ず「自分はいったいどうしてこんな無駄なことをしているのだ」と感じるだろうし、それだけ無駄に死に近づいていると感じるからだ。