さてここまで読んできて一息つきたい。私たちが本当に恐れているのは死だろうか。今更どうしてそんなことを蒸し返してくるのかと言われるかもしれない。ベッカーの本を読んで、Kの主張を聞いているうちに、それは当たり前ではないか、と言われそうな気になってきた。私は自分の肉体に起きる一番恐ろしいことを想像してみる。それは明らかに激しい苦痛だろう。私はおそらく中世のフランスのように、ギロチンにかけられるのは恐ろしい。自ら行う切腹も、その後に介錯を受けるのもとても恐ろしい。絞首刑も恐ろしい。それは私が臆病だからだろうか?
ところがもし同じ死刑でも致死量のバルビツールやモルヒネを静脈注射されることを想像しても、絞首台の前に立つような恐ろしさはないと思う。後者のようにまず意識が遠のくことから始まるのであれば、それはちょうど胃カメラを飲むときにかけられる鎮静のように、眠っていくだけだ。もちろん自分の存在が消えることへの不気味さはある。しかしそれは苦痛への恐怖、ということとは違う問題、もっと実存的な問題だ。
そう、私にとって間違いなく恐ろしいのは想像できない苦しみである。理論的にこれが恐ろしくない人間はいないだろう。人は痛みや息苦しさといった体験を知っている。それからすぐにでも解放されたいという苦痛を覚える。それを何倍も、何十倍も増幅された状態を想像すると、それほど恐ろしいことはないことになる。これを恐ろしいと感じないとしたら、精神的な異常をきたしていると思われても仕方ないだろう。恐ろしいことをそうと感じ、警戒し、回避することなしにはその人は生命を維持することは出来ないはずだからだ。
このように考えると、死への恐怖は二つに分かれるような気がする。一つは耐えがたい苦痛への恐怖。もう一つは実存的な恐怖。人は死への恐怖の際にこれらを混同する傾向にあるように思う。人は極度の苦痛に見舞われ、その果てに死んでいく、という図を描きやすい。そのような死こそ私たちは恐れるのだ。
思考実験として、実存的な死への恐怖のバリエーションを考える。とても長い間人口冬眠状態になり、例えば一万年後に冬眠から覚めるという保証付きで眠りにつくとする。これは死の恐怖とどのように異なるのか。私にはこれはかなり平気に思える。あるいはあなたは眠りにつき、再び目覚めるが、別の身体を持ち、今の人生の記憶も持たないとしたらどうか。この条件なら怖くないという人もいるかもしれないが、それは死ということとおそらく事実上何も変わらないであろう。3,2,1、ゼロで遠い世界の誰かに一瞬で入れ替わるとする。他方あなたの肉体は生き続け、しかし誰かの魂がのっとっているとしよう。それは恐ろしいことだろうか? あなたは元の自分のところに出かけて行き、話しかけてみる。あなた(の体の持ち主)は、急に話しかけてきた相手があなた自身の生まれ変わりだということを知らずに警戒するだろう。しかしそれはあなたがそのようなわけのわからない人に出会ったという現象とどこが違うだろうか? このように考えると、死は理論的には少しも恐ろしくないことになりはしないか?私が私であるという感覚は、目の前のあなたがあなた自身であるという感覚と少しも変わらない。ひょっとしたらペットのワンちゃんが自分は自分であるという感覚(ワンちゃんなら自意識を想定することが難しいとしても、生きている、という基本的な感覚はあるとしよう)とも変わらない。そのあなたが死ぬということは、今どこかで誰かが息絶えるということと、現象としては少しも変わらない。このように考えると、人が死ぬことは、実は少しも恐ろしいことではない。全く自然なことだ。もしそうでなかったら世界で、あるいは地球上で各瞬間に数限りない生命が消えていくことはとてつもないことになる。しかし人が死んだら皆それなりに驚き、涙を流し、そして死体があっという間に処理されてその人が行っていたことの中で継続が必要とされることについて誰かが任務を引き継いでいく、それだけだ。それはあまりにもありふれたことで、それを専門にする業者がそれを生活の糧にする。逆に人が死ななくなったら、老人ホームはたちまち満杯になり、葬儀屋は倒産し、それぞれの自宅にはほとんど寝たきりになっているだろう何代もの先祖様のベッドが増えていき、江戸生まれの曽々々祖父はもう数十年も人工呼吸器につながれ・・・・考えるだけでも恐ろしい。
他方では、あなたは死んでもそこですべてが消え去るわけではない。あなたが死んでも人はあまり変わらないのだ。あなたが死んでも、他の人はあなたのことを記憶しているだろう。あなたの遺品を目にすることがあり、その残した文章を見てあなたを思い出すだろう。世界はあなたが死んだことによってもほとんど変わらずに継続されていく。通常私たちはいかに有名だったり大切だったりする人でも、その人が生きているかどうかにはあまり関心がない。
例えば夏目漱石は49歳で死んだが、当時はそうではなかったとしてもかなりの早死にと言える。でも彼がそれほど早く亡くなったとしても、私たちが知っている夏目漱石は何も変わらない。私たちは彼の写真でよくみられる頬ひじを突いたり、千円札の中でこちらを眺めている彼のイメージと、彼の作品集を通して彼を知っているにすぎず、またそれで十分なのだ。彼が早死にしたことで、長生きしたら生み出したであろうたくさんの幻の作品のことを思い、涙するということはあり得ない。あるいは一世を風靡した芸能人についての思い出を持っていたとしても、今はおそらく生きていたら80歳代になるはずのその人が存命かどうかはおそらくどうでもいいのだ。
なんだかベッカーの死の恐怖の話は少し違うような気がしてきた。人間が抱える実存的なジレンマとは、自分が死んだらどうなるか、という、ある意味ではこれほど答えがはっきり見えていること(つまり死んでも何も起きないということ)がどうしてこうも私たちを悩ませるのか、と言い換えるべきではないのだろうか?
死はしっかり考えたら恐怖の対象とはならない。それを回避するから恐ろしく感じるのではないか。