2020年12月31日木曜日

死生論 29

 「生と死」について考え続けて一年が終わる。とんでもない一年。でもこれが「ブラックスワン」だ。そして米国の大統領選。一般のメディアによれば、事実上JBに決定。ネット情報では1月6日に大どんでん返しが起きて結局DTが第2期目に入る。いずれにせよ一つのドラマを見ることになる・・・・。 

 これまでの議論は実は生物学的な根拠がある。私はAを目指す。それは達成されたことを想像することで私の報酬系を刺激するからだ。Aをすることに生きがいを感じ、それ以外の時間は人生を無駄にしていると感じるのであれば、Aによる快感は、どうやら私にとっては死すべき運命を考えることを棚上げさせてくれるらしい。そして私にはAがあるからいいものの、それを人生において持てないとしたら、その人生はおそらく味気ないものになるのだろう。

 そこで報酬系についてもう少し。生命体は系統発達のごく初期から、報酬系を有する。線虫だってドーパミン作動性のいくつかの神経細胞による報酬系が存在し、そこを刺激することは、生命体を維持することにつながる。動物は光に向かったり、酸素を求めたり、栄養を求めたりする。それはその個体の生命維持を保証するからだろう。というよりは生命維持に役立つものを求め、そうでないものを回避する個体が生き延びてきたというべきだ。結果として死の回避につながるような行動がより多くの快感を生む個体ほど、適者生存の原則に従って生き延びてきたのだ。するとそこに快感や痛みという実態が存在する必要はないということになりそうだが、実はまさにその通りなのだ。

 例えば光の方向に向かう生命体は、より多くの光を浴びることで快感を味わうのだろうと私は想像する。しかしCエレガンスに成り代わり、実際に快感を体験しているかを知ることは出来ない。それに別に快感を味わわなくても、体が自然とそちらの方に向かえば、それでいいのだ。でもおそらくそこに快感、気持ちよさという体験が存在することでずっと説明がしやすくはなる。

 例えば私たちは一定の時間食べ物を摂取していないと、久しぶりに食べたものをおいしく感じる。これは快感だ。特に自分の好物だとその美味しさは格別のはずだ。この快感が存在せず、一定の時間がたつと、心地よくもないのになぜか特定の食べ物を食べたくなる、手が勝手に動いて、というのはオカしいではないか。でも可能性としてはありうるのだ。
 生命体が下等であればあるほど、何が報酬系を刺激するかは驚くべき程に一致している。アリの行動を観察しても、一匹だけ勝手な振る舞いをしてユニークな生活を送るアリなどいないだろう。生命体に宿命があるとすれば、それは報酬系に絶対服従であるということだ。それが快感を生み出すことならそれは正解であり、人はそこに faith (信仰心)を感じる。そこにそれ以外の理由はない。
 ここまでをまとめると次のようになる。人は自分にとって心地よい類の体験の際に、死を回避するという感覚を生む。そして、その体験に向かうことは、「これでいいのだ!」という正しさの意識、「これで行こう」、という感覚を生むだろう。そしてこれが faith の正体ではないだろうか。
     このテーマにまつわる話をしよう。ある著名人が何年か前に、覚醒剤を使用して捕まった。その後何年かして再び覚醒剤所持で捕まる。どうして彼が自分の社会的な生命を奪うようなことに手を出すのか、通常人は理解に苦しむだろう。しかしおそらくその著名人に覚せい剤使用の罪悪感はない。それは覚醒剤が彼の報酬系を刺激して快感を生み出すからだ。そのように報酬系が条件づけられてしまったからであり、そうなるとその著名人は覚醒剤の使用を正当化する。ある人は覚醒剤に再び手を出したときにこう思ったという。「こんなに苦労して人生を歩んでいるんだ。ほんのひと時自分にご褒美をあげてもいいんじゃないか?」そう、彼にとっては覚醒剤は安らぎ、ご褒美なのである。ちょうど疲れ果てた体を沈める暖かい布団のように。完全に善なるものなのである。そしてこれはその人の主観にとっては全くその通りなのである。