2020年11月22日日曜日

揺らぎのエッセイ 推敲 2

 昔メニンガークリニックにいたころ、カリフォルニアから訪れた招聘教授のグロッツテイン Grotstein の言ったことを思い出す。アメリカ人にしては珍しいクライン派の分析家という事で、メニンガーの医師たちも注目して彼の話を聞いていた。彼は公開スーパービジョンでセッションの最初の5分の報告を聞いてそれを止めさせ、その後のセッション全体の行方を占うということをした。全体の一部が深い意味を持っているという事を示そうとしたわけである。これもフラクタル的な考え方だ。あるいはロールシャッハだっていい。自我心理学派のラパポートはある図版の微細な部分への反応についてきわめて詳細な意味付けをするが極めて本質的な意味を持つことを示した。これもフラクタル的な発想と言える。でもこれって本当に意味のあることなのだろうか?

これらの例を出されても何のことかピンと来ないかも知れないが、臨床をやっているとこのような考え方の信憑性をどうとらえるかは決定的な意味を持ちうる。言葉や振る舞いを扱う私たちは、そこに様々な意味を与えたり、かと思うといとも簡単に切り捨て見なかったことにする。あたかも一つ一つの言葉に意味を問うことは臨床家の側の特権であるかのようにふるまうのだ。しかし最大の問題は、それが意味を持つかどうかは本当にはだれにもわからないという事なのだ。あるいはこんな言い方ができるかもしれない。

「神は細部に宿る」というが、「神がどの細部に宿っているかは誰にもわからない」。

患者の言葉は、あるいはロールシャッハの反応は、時にはその人の病理をきわめて鋭敏に反映するかもしれない。しかしどの言葉が、どの反応がそれに相当するかがわからない、あるいは知りようがないのである。

一つの分かりやすい例を挙げよう。ある私が関係している集まりで、司会に立った人がひとしきり挨拶をした後、「ではこれをもって閉会の挨拶とさせていただきます。」と言った。彼はすぐ自分でそれに気が付き、「今の言い間違いに深い意味はありません・・・・。 」とばつが悪そうな言い訳をした。いわゆる「フロイディアンスリップ(フロイト的な言い間違い)」の典型と言われそうなこの言い間違いは「この会を催したくなかった」という彼の無意識の表れだろうか。彼が「実はこの会を一刻も早く終わらせたかったんです」とでも白状しない限り、彼がこの言い間違いをした理由は知りようがないのだ。残念ながら脳は、そしてそれを基盤として生まれる心はフロイトが考えたような意味でのフラクタル性は有していない。フロイトの心のモデルはいわばトップダウン的で、心(エゴ、自我)が抑圧しようと決めてそれを指令して、ある内容が抑圧される。心の細部はその指令を遂行するために合目的に働いていることになる。だから細部の働きはことごとく意味がある、という事になる。しかしその理屈が通用しないからこそ、「夢判断」が不可能な試みだったわけだ。