2020年11月21日土曜日

揺らぎのエッセイ 推敲 1

 

心のフラクタル性について

 この秋に「揺らぎと心のデフォルトモード」という本を上梓した。二年かけた書下ろしで、これでやっと肩の荷が下りたというわけだが、しかししばらく「揺らぎ」について考え続けていたので、余韻が残っている。というよりは揺らぎのテーマはこれからもますます私の中で深まっていく気がする。

私はもう還暦をとうに過ぎたが、物覚えがますます悪くなる一方で、いろいろなことへの関心はかえって深まっている気がする。それらの多くはどれも当たり前のこととして若い頃は気にも留めていなかったことばかりである。なぜ生命が誕生できたのか。進化はいかにして生じるのか。遺伝と環境はどのようにかかわっているのか。意識とは何か。あるいはなぜ人はこれほどまでにわかりえないのか。

私が疑問に思い、かつ興味を抱くこれらのことは、決まって「フラクタル的」である。ある問題について理解しようと思い、大体はつかめたつもりになっても、その詳細を分かろうとすると、深い森に入った気になる。その一部について調べると、そこからも森が広がっている。どのレベルに降りて行っても、そこには鬱蒼とした森が広がっているのだ。

ますます深いジャングルに導かれる、という気持ちにさせられるのである。これが私が言う「フラクタル的」ということだ。(フラクタルとは、縮尺を変えても同じ模様が見え続ける、いわゆる自己相似性のことを指す。)

極小の世界ばかりではない。今では一枚で数ギガのサイズの銀河の最高画質写真を見ることが出来る。するといくら拡大していっても星が新たに湧いて出てくる。こちらの方向にもフラクタルが存在する。そして世界のフラクタル的な成り立ちを教えてくれるのが科学の進歩である。

こんな風に「フラクタル的」という意味を説明しても分かりにくいだろうか。あるいはこんな説明も可能かもしれない。私たちは絵心のない人や書道の初心者の描く線を見ても、特に興味を覚えないだろう。その細部に深みを覚えないからだ。しかし巧みな漫画家の描く線には、その一本一本に意味合いが込められていることを感じる。文筆家についても同じだ。文豪と呼ばれる人々の用いる細かい言葉のひとつひとつに深い意味合いを感じる。これらもその意味で「フラクタル的」であり、絵や書を鑑賞する人はその細部にまで世界が宿っていることを感じてその前で長い時間をかけて鑑賞するのだ。その意味では構造を持つものは、それを感じ取ることが出来る人にとっては興味を奪われるのである。それとは逆に素人の書くものを表面的で、味わいのないもの、浅薄なものと感じるのかもしれない。

さてでは心のフラクタル性についてはどうか。というより、そもそも心はフラクタル的だろうか。

心のフラクタル性を最初に見出したのはフロイトだった、と私は考える。夢の詳細にまで分け入り、そこでの象徴的な意味を論じた。フロイトの夢判断に書かれていることは、患者の(実はその多くはフロイト自身の)夢の詳細にまでこれほど意味が込められているのかと人々は感心したはずである。そして分析家とは元来細部が意味を持つという思考方法を取る。