2020年11月18日水曜日

揺らぎのエッセイ 9

 また今は何時代なのだろう、と考えるときに、大正―昭和-平成-令和という時代の移り変わりを思い浮かべて、その中から最優先の選択肢として令和が浮かび、何月、となると1月、2月・・・・という選択肢の間の競争が行われる。このように思考とはある種の階層構造におけるダーウィン的な競争の集結という事になる。

ではこの問題がどうしてボトムアップなのか? このような脳の働きを考えるうえで参考になるのが、前野隆司先生の「受動意識仮説」である。彼は脳の働きは基本的にモジュール的である、としてそれを脳の中の小人たちという言い方で表す。例えば赤いリンゴを見るとしよう。視覚野には丸い輪郭、赤い色などの部分的な情報が飛び込んでくる。場合によってはほのかな香りも嗅覚野を通して伝わってくるかもしれない。ところが脳は「あ、リンゴだ」という認識を最初から持つわけではない。まずはこれらの部分的な情報が組み合わされる。いわば脳の中の視覚野の小人たちの働きがあり、それがボトムアップ的に組み合わさってリンゴという認識が生まれる。心はいわば脳の小人というモジュールの働きの結果として浮かび上がってくるリンゴという認識をいわば受け取っているだけということになる。それはこれまで用いた表現を用いるならば、ダーウィン的な競争の結果として勝ち残った来たものである。

本当に脳がそのような働きをしているのかは、実際の視覚野における情報の処理を考えればわかる。後頭葉の第一次視覚野には丸い輪郭を取り出す部位、赤い色を感知する部位など、かなりバラバラな情報を上位に送り統合していく。最終的にそれを担うのは視床である。この機能が奪われると大変おかしなことが起きる。認知症では「ミカン」という答えが生まれるかもしれない。あるいは「妻を帽子と間違える」かもしれない。(オリバーサックスの同名の本がある。)