2020年11月10日火曜日

揺らぎのエッセイ 3

  言い換えるならば、言葉に表すことで私たちは現実を知った、わかったという感覚を得るが、同時に現実の生の姿は失われるのだ。なぜなら現実は常に揺らいでいて、その一瞬を切り取ることは、まさに生きているものを殺してしまうことになるからだ。「わかった」とは「分かった」であり、他と分化した何かを把握したことになるが、残念ながら他を切り捨てることでしか、その体験を得られない。現実を無限の数の面を持った多面体だとすると、そのうちの一つの面を選んで、それ以外の面を規律てなくてはならないのである。

 皆さんは自分や仲間の何かの折のスナップショットを見て「ずいぶん生き生きとした表情だ」とか「なんとなく悲しげな表情だ」と思うかもしれない。しかしそれは実際にそこで生きて動いていたその人の在り方のほんの一瞬を切り取っただけであり、スナップショットで生き生きとした表情を切り取られた人は、全体的に機嫌がよかったかもしれないが、各瞬間に様々なこと感じ、体験しているはずだ。それは決して一瞬の表情を映したスナップショットで表現されつくさない。しかしそれをあえて形あるもので表現するとしたら、「生き生きとしていた」という言葉による表現や一枚のスナップショットとして凍り付かせるしかない。

このことを実感するためには、自分が何者かを考えてみればいい。「私とは何か」。もちろん名前や社会的役割はある。しかし生き物として人間である私たちが、私とは何かを規定しようとしても、それこそ他者を規定することよりさらに難しいかもしれない。