このことを実感するためには、自分が何者かを考えてみればいい。「私とは何者か」。これをひとことで答えられる人はいないだろう。もちろん名前や社会的役割はある。しかし生き物として人間である私たちが、私とは何かを規定しようとしても、それこそ他者を規定することよりさらに難しいかもしれない。それに比べて、適度に距離を保っている人について、例えば誰かから「Aさんはどんな人ですか?」と尋ねられて私たちはたいてい時間をおかずに答えるであろう。「いやー、困った人です」とか「優しい人ですよ。挨拶もちゃんとするし」などという。それは距離のある他人ならスナップショットをその判断基準にするからだ。だからその評価はかなり主観的で一方的でありうる。ところが自分の性格を描こうとすると、途端に難しくなる。
例えば楽観的か悲観的か、人付き合いがいいか否か、優しい人間か非情か、道徳的か非道徳的かという判断をしようとしても、おそらくそれが一筋縄にはいかないことが分かる。それらの性質はたいてい私たちが一方に偏ろうとして軌道修正をして今度はもう片方に近づく、という形を取り、それを一定のものとして表現することは難しい。例として自分は「面倒くさがり屋」か否か、と考えてみる。たいていの人はおそらく自分自身を面倒くさがり屋と考えているかもしれない。厄介なことはしたくないし、できるだけ精神的な意味での省エネをしたいと大抵の人は思っているはずだ。面倒なことを先延ばししたくない人などいないであろう。しかし面倒くさがりだからこそ、面倒なことを先にやってしまいたい、という人も多いはずだ。一見テキパキと仕事をこなす人にもそのような側面があるのかもしれない。あるいはテキパキと仕事をする人の中には、こまごまとした仕事をこなしていくのが楽しい人もたくさんいるだろう。するとその人はすでにその意味では面倒くさがりではないことになる。ところが実はその人にとって面倒な事柄というのはしっかりあって、それを先延ばししている可能性がある。結局「自分はなんてめんどくさがりなんだ」と嘆息して、面倒な仕事をやってしまい、「自分は結構面倒なことも処理できるんだ」と思う、という両極を常に動いているのが人間なのである。
実はこのことは誰かと同居していても体験されることである。人はさまざまな側面を見せる。身近に接していると「案外意地悪な人だ」と思うことも「結構優しいところがある人だ」と思うこともある。その相手があなたの反応の仕方により自分の態度を軌道修正していたりする。結局あなたはその同居人をとても一言では言い表せないということに気が付くだろう。