2020年10月16日金曜日

ポドキャスト 日本語版 1

 例のポッドキャスト、英語で吹き込んで、これで終わりだと安心していたら、日本語版も作らなくてはならなくなった。やれやれ。

私は岡野憲一郎と申します。私は米国のメニンガー・クリニックで精神科医として、そして精神分析家としての訓練を受けました。このポッドキャストに向けていくつかのテーマについて、とくに精神分析的な文脈における多文化的な問題について論じ、また私の臨床的な関心事である解離性障害についても手短に論じたいと思います。
 私の精神科医は1982年に大学の医学部を卒業したところから始まります。そのころ精神分析に関する臨床や研究は、慶応グループの先生方により非常に活発に進められていました。そこには慶応義塾大学助教授の小此木啓吾先生の力強いリーダーシップがありました。小此木先生は古澤平作先生の弟子であり、非常に高名な先生でした。ちなみに先生のお師匠さんである古澤先生は日本の精神分析の草分け的存在であったことは言うまでもありません。
 1987年になり、ちょうど大学を出て5年たった時点で、私はパリ留学を一年した後米国のカンサス州トピーかという田舎町にあるメニンガー・クリニックに留学しました。当時私は独身で身軽だったため、特に期限も決めず、自分を試してみようという意気込みで米国に渡ったわけですが、精神分析を本場のアメリカで極めたいという医師もあり、小此木先生にも「ぜひそうしたまえ」と言葉をかけていただきました。メニンガーでは精神科のレジデントを1993年に負えた年に、そこに付属していたトピーカ精神分析協会(TIP)に受け入れていただき、そこをおよそ10年後に卒業して帰国したわけです。トピーカ分析協会では様々な刺激を受けたわけですが、そこでたくさんの文献に接する機会がありました。その一部にはとても興味をひかれ、別の一部はつまらなく感じられ、残りの一部には疑問を感じるという体験をしました。これは分析協会の学年が進むにつれて好みがいろいろはっきりしていったというところがあります。
 この分析のトレーニングを受けている間に私にとって最も中心的なテーマとなったのが、恥であり、いわゆる対人恐怖、DSM的な言い方では社交不安障害の問題です。私はこの問題におそらく精神科医になる前から関心があったのです。というのは日本の精神医学においてはこの対人恐怖について語られることが多く、また私自身がとても恥ずかしがり屋だったのです。ですからこの問題について考えるのは患者に対する治療を考えるうえでも、また私自身について考えるうえでもとても役立つと思ったわけです。
 そのころの対人恐怖に関して日本の精神科医が考えていたことは、ともかくもこの対人恐怖というのは日本に特有のものであり、欧米にはほとんど見られないということで、実際そのような論文を目にすることがありました。その意味では対人恐怖というのは一種の風土病という扱われ方もされたのです。ですから海外に出た今、私はある意味では特権的な位置にあるという気がしたのです。ただし私の留学した1980年代の後半は、アメリカの精神医学は1980年に出版されたDSM-IIIの影響を大きく受け、またそこで採用された社交不安障害についても注目されるようになっていました。もちろん社交恐怖と対人恐怖は微妙に異なるのですが、それに伴い恥shame という概念が精神分析の世界でも論じられるようになりました。そこでメニンガーのレジデントを卒業する際に「shame and social phobia 恥と社交恐怖」という論文を書いたのですが、それが卒業論文賞をいただくことになりました。そこで私は気をよくしてメニンガークリニック紀要 Bulletin of the Menninger Clinic (Okano, 1994). に投稿したところ、運良く掲載していただきました。
 私がこの論文で主張していたのが、以下の点です。恥というのは文化により様々な異なる意味を与えられていること。日本では恥を感じやすいということ、控えめで目立たないことは社会の中でポジティブな意味を与えられていること。ところが米国ではそれと全く異なることが起き、むしろ恥の感情は抑制される傾向にあるということ。何しろ弱さを見せることは社会の中でその人を敗者の位置におくことになるからです。私はその論文の最後に結論として恥の感情はそれにポジティブ化ネガティブ化という二者択一的な姿勢を持つべきでなく、両方の意味を兼ね備えるものとして柔軟に捉えるべきであろうということでした。
 これを描いたころ私は38歳、これから米国で精神科医として、そして精神分析の候補生として暮らしていくにあたって自分の立ち位置はどのようなものとなるのかについて非常に大きな葛藤を抱えていたことを思い出します。