私がこのころ考え始めていたのは、恥の感じやすさというのは私がある意味で一生背負っていくものであり、それはまた人を理解する上で極めて重要なツールになるであろうということでした。そしてこれはまた多文化、異文化を理解する上でも貴重な概念であろうということでした。そこでこのテーマをずっと温めていたわけですが、2018年にIPAのアジアパシフィック大会というものに出ることになり、このテーマについて再び発表を行い、それを論文化することができました。それが「Passivity, non-expression and
the Oedipus in Japan 受け身性、無表現、そしてエディプスコンプレックス」という論文で International Journal に2018年に掲載していただきました。この論文では恥というやや少数派的なテーマをエディプスという精神分析にとって中核的な問題に結びつけて論じることにしましたが、基本的な主張は26年前の論文と似たものでした。つまり日本人のメンタリティは秘密主義的で表現をあえてしないという傾向を社会的な多くの文脈の中で発揮しているということです。つまり伝統的な美や工芸のエッセンスは秘境的であり、言語で伝えることができないという考え方に基づきます。まあこのことは28年前に強調したことですが、その意味で日本におけるエディプスの問題は少し入り組んだ形で存在しているということです。つまりそこに受け身性の秘密性に美徳や価値を置くという傾向です。
この論文で、私はやや極端な二分法を示しているということになります。つまり能動性を重んじる西欧諸国と受動制を重んじる日本社会という対比です。エディプスの問題に関して、私は次のようなアナロジーを示しています。つまり西欧社会においては立派なファルスを保持し、それを周囲に示すことがエディプス葛藤の克服を身にすることに比べ、日本においては、立派なファルスを隠したり、持っていないふりをしたり、ということが意味を持つわけです。私がこの論文で強調したのは、受け身性の持つ意味は日本人が日常で感じることだということです。感情を外に表現することはどちらかと言えばはしたない、あるいは嘘っぽいと思われることすらあります。日本人が「愛しているよ I love you」と言わないのは、愛しているなんて、そんなに軽々しく言えるわけないじゃないと言いながら、同時にそれで照れ隠しをしているという部分もあり、また相手とのコミットメントを避けているという部分もあるのです。つまりは受け身性は日本人にとっては防衛的であると同時に戦略的でもあるということです。
私はこの受け身性のパラドックスをいくつかの文脈で述べました。一つはアジャセコンプレックスで、もう一つは甘えという概念です。アジャセコンプレックスは先ほど紹介した古澤平作先生がフロイトに1930年代に会いに行き、そこで二種類の罪悪感という論文を提出したことに始ります。彼はエディプス的な罪悪感とは別に、アジャセ・コンプレックスというものが考えられるとしたのです。このアジャセの話は仏典に基づく話を古澤先生なりに改編したものですが、そこでは父親が子供を処罰するという文脈とは異なり、母親が子供を許すという全く違った文脈が罪悪感を引き起こす場合があると述べたのです。この考え方が日本人の受け身性の問題とどのように関連するかと言えば、お前が悪い、というポジティブなメッセージではなく、お前を罰しない、むしろ許すというネガティブなメッセージが逆説的に罪悪感を引き起こすという論じ方が日本社会における受け身性の持つ逆説的な威力という点でつながっていると私が思うからです。
ただしここで一言いえば、米国で暮らしていても、どちらが悪いとは言えないことで争いごとがあった場合、こちらが謝罪することで相手も「こちらこそ悪かった」という気持ちになることが多いということです。こちらが謝ったら相手が勝ち誇り、賠償を求めてくるという図式は、あまり相手を信用できないような関係性に当てはまるのではないかと思います。
さてもう一つのテーマは甘えです。これも受け身性とかなりつながってきます。甘えの概念はご存じの通り土居健郎先生が1970年代に「甘えの研究」で提唱したものであり、彼がアメリカでの異文化体験を通して思いついたものです。彼はこれを依存の特別な形と考えましたが、特に日本文化に特有なものではなく、あらゆる民族に見られるものの、それを同定して名前を付けるということをしていないと考えたのです。彼は甘えは愛情 love と似ているものの、エディプス期に特有とされる性愛性や両価性 ambivalence を含まないと考えました。彼はこれをフェレンチが1931年に提唱してバリントにより受け継がれた受け身的対象愛の概念に相当するものだと主張しました。
私はこの受け身性のパラドックスをいくつかの文脈で述べました。一つはアジャセコンプレックスで、もう一つは甘えという概念です。アジャセコンプレックスは先ほど紹介した古澤平作先生がフロイトに1930年代に会いに行き、そこで二種類の罪悪感という論文を提出したことに始ります。彼はエディプス的な罪悪感とは別に、アジャセ・コンプレックスというものが考えられるとしたのです。このアジャセの話は仏典に基づく話を古澤先生なりに改編したものですが、そこでは父親が子供を処罰するという文脈とは異なり、母親が子供を許すという全く違った文脈が罪悪感を引き起こす場合があると述べたのです。この考え方が日本人の受け身性の問題とどのように関連するかと言えば、お前が悪い、というポジティブなメッセージではなく、お前を罰しない、むしろ許すというネガティブなメッセージが逆説的に罪悪感を引き起こすという論じ方が日本社会における受け身性の持つ逆説的な威力という点でつながっていると私が思うからです。
ただしここで一言いえば、米国で暮らしていても、どちらが悪いとは言えないことで争いごとがあった場合、こちらが謝罪することで相手も「こちらこそ悪かった」という気持ちになることが多いということです。こちらが謝ったら相手が勝ち誇り、賠償を求めてくるという図式は、あまり相手を信用できないような関係性に当てはまるのではないかと思います。
さてもう一つのテーマは甘えです。これも受け身性とかなりつながってきます。甘えの概念はご存じの通り土居健郎先生が1970年代に「甘えの研究」で提唱したものであり、彼がアメリカでの異文化体験を通して思いついたものです。彼はこれを依存の特別な形と考えましたが、特に日本文化に特有なものではなく、あらゆる民族に見られるものの、それを同定して名前を付けるということをしていないと考えたのです。彼は甘えは愛情 love と似ているものの、エディプス期に特有とされる性愛性や両価性 ambivalence を含まないと考えました。彼はこれをフェレンチが1931年に提唱してバリントにより受け継がれた受け身的対象愛の概念に相当するものだと主張しました。