ERの続き。
あとは顛末だけである。どうせオチらしいオチはない。
私が非常に興味深く思ったことは、当たり前の話ではあるが、「人間、何が起きるかわからない。」である。とくに早朝にERに駆け込んだ、体に何が起きてもおかしくない還暦過ぎの人間が、もうその日の外来もあきらめ、まな板の上に乗ったのに、どうして結局は何事もなかったかのように仕事に戻れた、という不思議さだった。ボルタレン座薬は魔法のように効き、私はJTD医院のERから歩いて帰宅し、診療所に定刻にたどり着いた。もちろんこれ以上ないくらいのハッピーエンドである。その後数日後に結石のかけらが尿と一緒に排出されるまでは、6時間ごとにロキソニンを飲み継いで痛みを散らさなければならなかったという事を除いては。ある意味では「これで済んだの???」と幸運を味わった一日(半日?)だったのである。オシマイ。
ダイナミックコア説とDID
さてここで私はエーデルマン、トノーニの両先生が著した著書に提唱されているダイナミックコア(以降DC)という概念を導入したい。これはエーデルマン先生が人間の意識を成立させる神経ネットワークとして想定したものであり、それは具体的には視床と大脳皮質の間の間の極めて高速の情報の行き来を含む。彼らはこの情報の双方向性の行き来という点を極めて重要視し、それが意識が成立する上での決め手であると考えている。ここで注目するべきなのは、彼らはこのDCが複数存在する可能性を想定していることであり、それが解離性障害や統合失調症と関連しているのではないかという推察も行っている。
ちなみに近年の研究では、統合失調症における自我機能の障害は、ニューラルネットワークの解体
disintegration に関係していることを示している。
Ebisch,S
(2016) The social self in schizophrenia: A neural network perspective on
integrative external and internal information processing.
European Psychiatry.Volume 33, Supplement, S45.
統合失調症においては「能動性の意識」「単一性の意識」、 「同一性の意識」「限界性の意識」の障害がすべてそろって障害されている。その意味では自我の分裂という意味でのschizophrenia
はまさに単一の意識の分裂の典型といえる。
例えばAさんが「あいつは敵だ」という幻聴を聞いて、Bさんに攻撃を仕掛けるとする。いわゆる命令性の幻聴である。これを統合失調症のケースと考えるならば、この場合は先ほどのヤスパースの例では1~4が様々な形で制限される。あの人は敵だから攻撃性よ、という声は、そのまま実行される。その意味で「させられ」ですらないだろう。2も問題だ。他者の声(幻聴)が自分の意図になるという意味では、もはや単一の行為主体ではないことになる。同一性は? これはあまり問題とならないだろう。昨日の自分は今日の自分でもある。そして4の境界も怪しくなる。「アイツが敵だ」という声が自分の考えになる、というのは自他の境界があいまいになる、という言い方をされるが、自他の区別の意味がなくなる、という言い方の方が正しいのではないだろうか? その意味ではSにおける行為は「自分が」行ったことであり、それに対して免責が行われるというのは矛盾しているともいえる。
このようにエーデルマンがダイナミックコアの複数の存在として統合失調症の例を考えたことはあまり理にかなったこととは言えないであろう。しかしDIDの場合はまさにその通りのことが起きていると考えざるを得ない。