交代人格は他者であるという私の点に戻る。という事は人格間の関係性の学問は、対人格関係 inter-personality relationshipであるという所から。このように考えると解離の世界というのは、見事に一者心理学と二者心理学の間にまたがっている。ただし二者心理学は外部の他者が他者であるのに対して、解離の場合は内部に他者がいることになる。このことに耐えられるような分析家は多くないのではないか。一つの決め手はサリバンのnot-me という事になる。このnot-me はどう訳されるのだろうか。「私でない私」だとしたら誤訳になる。「非私」ないしは「私でないもの」。こうなると他者ではないか。だから人格は他者である、と言っていたのはサリバンだったという事になる。以下の論文を読みながら進めていく。
Chefetz, RA,Bromberg, PM (2004).
Talking with “me” and “not-me” a Dialogue. Contemporary
Psychoanalysis, 40(3):409-464
The goal is a dyadic,
here-and-now reconstruction of this activity in such subjective
detail that the patient's dissociated self-states, being
affectively enacted as “not-me” elements in their relationship,
become symbolically processed as part of “me.”(p.412~413).
それに対して、もう一人の論者、シェフェッツさんは何と書いてあるだろうか。うーん。彼もエナクトメント派か。やはり同じ主張をしている。でも考えてみよう。これはいわゆるさせられ体験のことを考えたらわかりやすいのではないだろうか。解離における侵入症状。このことを忘れていた!つまり侵入症状になると明らかに解離された部分の表現という事になる。
どうしてこのことに今まで気が付かなかったんだろう!
(精神医学による)させられ体験 ≒ (精神分析による) エナクトメント
するとこういうことになる。自分の手が勝手に動いて何か文字を書いた時(自動書記)、それは他者の字なのか、自分の字なのか。ここで決定的な違いが生じるという事なのだ。しかしこのブレインストーミング、どこが着地点何だろう。シェフェッツさんの論文を読んでいるうちにまだ考え出して、結局読んだことにならなかった。
あれこれ考えるうちに、一つのテーマが浮かんできた。解離の連続体dissociative continuum という事を論じてはどうか。つまりこういうことだ。生物学的な文脈では、DIDは別のダイナミックコアを有していますよ、と言えても、精神分析ではどうしてもそれを受け入れられない。そこで連続体という事にしてそれを提示してみるのだ。うん、これで行こう。つまりかなり明白な使い分けをすることになる。
あとはいくつかの章立てを考えて、この連続体のどこに属する論述かを探ることになる。例えばすでにこのブログにも書いたスターンの話。