解離の連続体仮説というものを考えた場合、一方には自己の多面的なあり方があり、他方には他者性を有する人格が複数存在するということになる。しかしこの他者性が最も問題にされなくてはならないのが、攻撃者の理解の問題であろう。もしこれを自分の一部と考えた場合に矛盾が生じる。なぜなら攻撃者のオリジンは外だからだ。それぞれを自分の一部とみなすかどうか。攻撃者が内在化されたらそれは他者性を帯びるのではないか。それはエナクトメントなのだろうか。ここは最重要問題だ。ということで原典への回帰。再びフェレンチの論文の金字塔である「言葉の混乱」を読んでみる。
改めて読み直して思ったのは、フェレンチ自身も新たな人格の形成について戸惑っているという姿である。そこには単なる人まねmimicryにとどまらないようなことが起き、そこに個別の人格が驚くべき速さで成立し、断片は原子(つまりはそれ自身が活動性を持った、という意味か?)となり、それらの間の関連性を見つけることが難しくなる、というフェレンチの当惑が表れている。フェレンチ自身がdとDのスペクトラムのはざまで間で混乱していたようである。
S.
Ferenczi. (1932) Confusion of Tongues Between the Adult and the Child -the
language of tenderness and of passion-International Journal of Psychoanalysis.
フェレンチは交代人格をその人として、つまり子ども人格を子どもとして扱うことを教えている。つまりはその子供の無意識に働きかけ、解釈を通そうなどと思うな、ということである。(日本語部分は森茂起先生他訳「精神分析への最後の貢献」フェレンツィ後期著作集 岩崎学術出版社、2007年による。)
We talk a good deal in
analysis of regressions into the infantile, but we do not really believe to
what great extent we are right; we talk a lot about the splitting of the
personality, but do not seem sufficiently to appreciate the depth of these
splits. If we keep up our cool, educational attitude even vis-a-vis an
opisthotonic patient, we tear to shreds the last thread that connects him to
us. The patient gone off into his trance is a child
indeed who no longer reacts to intellectual explanations, only perhaps to
maternal friendliness; without it he feels lonely and abandoned in his greatest
need, i.e. in the same unbearable situation which at one time led to a
splitting of his mind and eventually to his illness;(p.227)私たち分析家は、強直性発作を起こしている患者に対してもいつもの教育的で冷静な態度で接しますが、そうして患者とつながる最後の糸を断ち切ってしまいます。気を失っている患者は、トランス状態のなかでまさしく本当の子どもなのです。だから、知的な説明にはもはや反応しません。反応できるとすれば母親的な親愛の情が向けられたときだけで、これがなければ絶望的苦しみのなかに一人捨てられたと感じます。
そしてここで有名なフェレンチの「攻撃者との同一化」の提言がある。ただしこれを彼は攻撃者の取入れ、とむしろ言い換えている。
The same anxiety, however,
if it reaches a certain maximum, compels them to subordinate themselves like
automata to the will of the aggressor, to divine each one of his desires and to
gratify these; completely oblivious of themselves they identify themselves with
the aggressor. Through the identification, or let us say, introjection of the
aggressor, he disappears as part of the external reality, and becomes intra-
instead of extra-psychic;(p228)ところが同じ不安がある頂点にまで達すると、まるで操り人形に用に、攻撃者の意思に服従させ、攻撃者のあらゆる欲望の動きを汲み取り、それに従わせ、自らを忘れ去って攻撃者に完全に同一化させます。同一化によって、あるいは攻撃者の取り入れによって、攻撃者は外的現実としては消えてしまい、心の外部ではなく内部に位置づけられます。
It is more remarkable that
in the identification the working of a second mechanism can be observed, a
mechanism the existence of which I, for one, have had but little knowledge. I
mean the sudden, surprising rise of new faculties after a trauma, like a
miracle that occurs upon the wave of a magic wand,' or like that of the fakirs
who are said to raise from a tiny seed., before our very eyes, a plant, leaves
and flowers. Great need, and more especially mortal anxiety, seem to possess
the power to waken up suddenly and to put into operation latent dispositions
which, un-cathected, waited in deepest quietude for their development. (229)驚くのは、そんなものがあるとは私などもほとんど意識していなかった第二のメカニズムが同一化にさいして働くのを知ったときです。衝撃を受けることで、それまでなかった能力が、魔術で呼び出されたかのように前触れもなく突然花開くのです。自の前で種から芽を出させ花を咲かせてみせるという魔術師の魔法を思い起こさせるほどです。最悪の苦難というものには、死の恐怖ならなおさらですが、深い眠りのなかで備給されないままいずれ成熟するのを待っていた潜在的素質を突然目覚めさせ、活動を始めさせる力があるようです。性的攻撃を受けた子どもは、結婚し母になり父になることに含まれる能力を、そして成熟しきった人間の感覚すべてを(これらは自らのなかにすでに潜在的に前もって形成されているのですが)突然発達させることができます。外傷がそれを必要とするからです。よく知られた退行とは反対に、外傷的な(病理的な)前進ないし早熟という言い方をここでしてもいっこうさしつかえありません。
Eventually it may arrive at a state which-continuing the picture of fragmentation-or re would be justified in calling atomization. One must possess a good deal of optimism not to lose courage when facing such a state, though I hope even here to be able to find threads that can link up the various parts. 229ついには断片化のイメージがさらに広がり、原子化 atomization と呼んでおかしくない状態にいたるでしょう。このような状態像に直面しても沈み込まない勇気をもつには本当に大きな楽観が必要です。それでも私は、そんな状態でもなおたがいを結びつける方法が見つかると期待します。