2020年9月6日日曜日

論文作成 ブレインストーミング 2

 精神分析における解離の議論は実は難しい問題をはらんでいる。米国の分析界に「解離グループ」があるとすれば、基本的にドネル・スターンの敷いた路線を踏むことになる。ドネル・スターンは関係精神分析のドンであるという。彼の理論に反対している論文を読んだことがない。しかし彼のいう解離は、私の視点からは、抑圧とあまり変わらない。一つの心の中で起きていることなのだ。解離とは心の中で形になっていないものであり、行動レベルで(エナクトメント)表れるのだ、というのだが、これは通常の解離とは違う。「小さな解離」だ。DIDで問題になるような、心が複数存在するような「大きな解離」ではない。

Howell先生の本を読んでいてどうしてもわからないのは、DIDを扱っているはずの彼女が、なぜスターンの理論を踏襲できるのか、という事だ。それは政治的なことなのか。DIDで問題となる大きな解離には、スターンの理論は合わないはずである。そこを彼女がどのように折り合いをつけているのかわからない。そのためには彼女の著書を読んでいく必要がある。

ちなみにスターンの理論がなぜ精神分析における解離理論の主流を占めるか。それは精神分析の基本概念を踏襲することが出来るからだ。こころは一つ。もし分かれているとしても内部で力動的に繋がっているから、一方で起きることは他方に必ず変化を及ぼす。すると解離も抑圧も、ひとりの心の中に特別な部屋を設けるという意味では変わりないのだ。

エナクトメントを考えよう。アクティングアウトと結局は大差ない。でもエナクトメントは解離されているものの表現、アクティングアウトはスプリッティング、ないしは抑圧されているものの表現、となるとあまり変わらないことになる。すると交代人格はその人の心の中に解離されていたものが表現されたもの、という事で抑圧理論と基本的に類似することになる。「結局同じじゃん」という人が出てきてもおかしくない。

しかし私の立場は交代人格は基本的に他者であるという事である。ある人格のあずかり知らない側面を持つ他者。対人関係論interpersonal relationshipの範疇にあるべき議論。ということはDIDはすでにクライエントの中での対人関係(対人格関係 inter-personality relationship)が成立しているという状況なのである。この違いはとても大きい。