2020年9月5日土曜日

論文作成 ブレインストーミング 1

 今日からは解離に関する精神分析の英語の論文を一つ書くことにする。しかし生物学的な解離の論文を昨日まで書いていて、特にミラーニューロンのことやDSMの定義について書いているうちに、ずいぶん頭の中がシャッフルされて、整理がつかなくなっている。そこで改めて論文に書く内容について、まずはブレインストーミングから始める。ラフスケッチを描いてみるという感じだ。まあタイトルは"Dissociative Turn Revisited解離的な転回・再考でいいだろう。投稿先は「某psychoanalytic なんとかジャーナル」という英文誌にしよう。ただ著名な学術誌はおそらく受け付けてくれないので、それほどメジャーではない学術誌、という事になる。これで大体の方針は決まった。(論文を書くときには、まずどこに投稿するかを決めよ、という教えがある。おかしな話のように聞こえるが、それぞれのジャーナルで文化が違い、それに従う必要があるからだ。)
 構想段階は、論文を書く上で一番楽しいのかもしれない。ある家を建てるつもりになって、大体どこに建て、どのような構造にして、どこに自分らしさを出すかを夢想するわけだ。「あつまれ森のどうぶつたち」だって同じだろう。私はやったことはないが。
 題についてであるが、分析家のイスコビッチ先生の“Dissociative Turn”という論文がすでにあるので、それを踏襲し、膨らますというのがモチーフだがそこには批判的な趣旨も盛り込まれる。というより精神分析でこれまで解離について論じてきたその道の先人の足跡を基本的には追うことにある。E.Howell先生、S.Itzkowitz先生、D.Stern先生、この間なくなったP.Bromberg先生、そしてR.Kluft先生などである。
 この論文の最大の難所は、解離について書くことは、従来の分析理論の基本部分の否定ないしは再考という事になるからだ。解離を理解し、好意的な査読者だったら、こちらの意図を汲んでくれるが、そうでない査読者なら「分析の本質に反することを書いている、けしからん!」という事でボツにされる危険がある。そこの匙加減が難しいが、一つの賭けでもある。
 さて今一番私の中で問題となっていると感じるのは、交代人格を「断片」扱いしているという最近の欧米の学界の風潮である。彼らはそのような理解に甘んじていていいのだろうか。昨日Howell先生の本を読んでいたが、彼女までもが彼らをfragmented personality という表現を使っているので驚いた。私の中では彼女は良識派の分析家なのだが、「彼女は断片化された人格を持っている」という目で見ているのだ。一人の人として見ていないというべきか。一人一人と出会っていないというべきか。でもそれはないだろう。彼女たちは普通の人間である。