2020年9月16日水曜日

解離における他者性とはなにか 2

 しかしいつも解離の方と会っている私としては納得がいかない。例えばAさんと会ったとする。たとえAさんにはBさん、Cさん…という交代人格がいたとしても、私とAさんの関係は基本的には変わらない。Aさんが「人格未満」であるようには少しも思えないのである。

 ここには解離は防衛として意図的になされるという理解(誤解?)が通説となっているからであるかもしれない。例えばAに代わってBさんが出現し、彼はAさんとは違って怒りをあまり抵抗なく表現できるとするならば、「怒りを表現する人格は、あなた自身が抑圧している部分を表している」という治療者の理解は、現在でもごく常識的に(臨床経験の多寡にかかわらず)なされる傾向にある。すると自分が本来体験するであろう怒りを自分から解離させるという行動が、その人の不完全性を表しているという考えが自然と導かれてしまうのである。私にはこれは深刻な問題のように思われた。第一怒りを外に表現できない人はたくさんいるが、それを理由にそれらの人々は不完全だと主張する権利は誰もないであろう。

「他者性を認めない」という傾向の由来を解離の歴史から紐解く

ここで解離における交代人格を独立した他者としては認めないという傾向について、その由来を考えてみよう。19世紀の半ばには、催眠やヒステリーの原因として「意識の splitting (分割)」が一般に考えらえるようになった。20世紀の初めは、解離の病理について、そして統合失調症の病理について様々に論じられる傾向にあったが、そこで「意識の分割」という考え方は、それらのすべての人たちの共通理解だったといっていい。フロイトもジャネもブロイラーもそれぞれが異なる「意識の分割」を主張していたのだ。

ところが問題は、 splitting doubling という言葉自体があいまいで両義的だったことである。それは division (分割、分岐すること) multiplication (増殖すること)の両方を意味していた。(O’Neil (2009) )

O'Neil, J. (2009Dissociative Multiplicity and Psychoanalysis. (In) Dell, Paul F. (ed.)  Dissociation and the Dissociative Disorders - DSM-V and beyond., Routledge (Taylor and Francis), pp.287-325.

O’Neil points out that this difference has been overlooked due to the fact that “multiplication and division are present in the double meanings of both split and double”(p.298). He asserts that while dissociation is often described as the division of consciousness, he prefers the connotation of “multiplication of consciousness” which “better describes dissociative multiplicity” (p.298). Hereafter, we refer to this distinction as “splitting as division vs. splitting as multiplication” in the sense that O’Neil explicated. I propose that the ambiguity of the meaning of splitting might have been one of the factors deterring our discussion regarding the “problem of otherness” that I am discussing in this article.

Splitting という語の持つ両義性(O‘Neil)


この絵を見ればわかるとおり、スプリッティングには二種類の意味がある。左は分裂、右は増殖。左は一つのものがわかれるが一部はつながっている。他方では右では分割は数が増えることを意味する。そして解離において「意識のスプリッティングが生じている」とさらっと言っても、理解する人の多くは、両者の区別を曖昧にしていたのではないかと考えるべきであろう。