2020年9月15日火曜日

解離における他者とはなにか 1

 「解離性障害における他者性の問題」というテーマで論じる。私がなぜこのテーマを取り上げたいかと申し上げると、DIDの患者さんの多くが「自分は自分であり、ほかの人格とは一緒にしないで欲しい。」と訴えるにもかかわらず、一般人や臨床家の一部は、この点を理解せず、そのために患者さんは「わかってもらえていない」と失望することが多いからだ。つまり一人の交代人格にとって、別の交代人格は他者として扱わているのか、というテーマである。
 私はこのテーマには重大な問題が潜んでいることを最近感じることになっている。いわゆるMPDDIDの論者の中で交代人格のことを「断片」としてとらえている人たちが非常に多いという事である。この状態を「妄想的な delusional separatedness」という表現をする専門家もいる。こんなことを聞いたら解離の方はとんでもない、と思われるだろう。

 実はこの問題は精神分析的な文脈の中で解離の問題が論じられる場合に顕著であるといえる。精神分析においては心は一つであるという前提がある。そこではやはり交代人格も主たる人格の一部、という考え方が根強いのである。
 それにしても交代人格を他者、すなわち一つの主体と認めないとしたら、それはなぜなのか。そこには私たちが「他者性の問題」について誤った認識を持つからであるが、そこには「人格が分かれる」という考えの持つ本来的な両義性、あいまいさが関係している。しかしある人格が他の人格を「他者」と感じる時、そこには構造的、脳科学的な根拠が存在するという事を私はこの発表で示したいのだ。
 別人格の「他者性」が伺われる状況をいくつか挙げてみよう。人格同士がライバル関係にある場合や、別人格に対して(自傷とは異なる意味での)攻撃が行われる場合や別人格に対して恋愛感情が向けられる場合などが挙げられるだろう。

別人格の「他者性」が伺われる簡単な例をひとつ挙げてみよう。

「この間車で信号待ちをしていて、青になったのに、前の車がなかなか発車しませんでした。すると後ろから突然『何をぐずぐずしてんだよ!』というBの声がしました。ずいぶんイライラしているんだなあ、と私は驚きました。(BはAの別人格だった。)

このような例を考えるとき、Bは他者だろうか。もしそのBさんがしばしば登場し、Aさんに成り代わって活動をするとき、Bは事実上の他者ではないだろうか。これは、たとえばBさんが別人格ではなく、同乗していた口の悪い友人だとしたらどうだろうか?もちろんれっきとした他者の声のように聞こえるだろう。ところが別人格を主人格とは独立した個別の人格としては扱わない傾向にあるのだ。これはおかしいのではないだろうか。そもそも別人格という意味でよく使われた alter (ラテン語の「他者」)という表現はますます使われなくなって来ているのである。
 
これとの関連で、DSM-IV以来「多重人格障害」に取って代わり「解離性同一性障害」という診断名が使われるようになった。これはいくつもの人格が存在するという誤解を軽減するためだといわれる。これに関してDSMの作成に携わった解離委員会委員長のDavid Spiegel 先生は言ったという。「誤解してはならないのは、DIDの患者さんはいくつかの人格を持っていることが特徴なのではない。(満足な)人格を一つも持てないことが問題なのだ。」とまで言う。それに多くの支持者を得ている「構造的解離理論」でも、別人格ではなく「PP(人格部分)」という表現がなされている。