2020年9月14日月曜日

論文作成とブレインストーミング 9

  実はここ数日あることに気を取られていた。はるか昔、2年ほど前に海外の専門誌に投稿した解離の論文の査読が返ってきたのだ。再査読になっていて、去年の5月に再投稿したものが今頃返ってきた。もう忘れかけたころだ。それにしても気が長い話である。そしてその査読の結果が悩ましい。査読者甲先生は「受理」、乙先生は「却下」。完全なスプリットで、編集者は困り果て、結果的に「よろしかったらもう一度直してください」と言ってきた。

内容は解離に関することだが、その査読内容を読むうちにこのテーマに関する考えが私の中で大きくかき混ぜられることになる。再度ブレインストーミングだ。しかしそれは解離をどうとらえるか、という本質的な問題が問われた、というよりは、解離をどのように論じ、精神分析の世界にどのように当てはめるかという議論である。あるいはどこの誰の引用をもっと行い、どこの誰に気づかいをして当たり障りのない内容に変えるか、ということである。そしてある意味では私自身の論文執筆に伴う自己愛をどこまで収めるか、という事でもある。つまりこういうことだ。論文とは第一に「私は○○を発見した!それをいち早く発表したい。」というものだ。だから教科書になる前に学問の世界にその真価を問う。ただし学問の世界は実は「何が正しいか」を競う世界ではない。本来はそうあるべきものだが、その学会が組織として維持されていくためにはその中でのルールが生まれる。そして「そこでのルールを守ったゲームに参加し、その上でいかに新しさを示すか?」ということが問われていく。

ある学会での議論が例えばA,B,C,D….と進んでいくとしたら、いきなりGを提案してもまず受け入れられない。「Gというからには、E,Fは誰かが言っているの?」となる。「いや、E,Fはまだ誰も言っていません」は許されない。「ではまずEについて論じるほうが先でしょ。それは受け入れる用意はありますよ。何しろDまでは言われているんですから。」

私の論文を却下した甲先生は応用で、「まあE,Fは飛ばしているけれど、新しいことだからいいんじゃない」で、乙先生は「ダメ!それじゃA,B,C,D先生に失礼である!」これは要するに論文を書く人間の社会性が問われ、自己愛の在り方も問われたというわけだ。それはそれでよく分かる。いきなり海外から新参者が論文を送り付けてきても、「まず私たちの発行している専門誌を読んで、誰が何を言っているかをもう少し精査してください。」という事になる。当然の話である。