2020年9月10日木曜日

論文作成 ブレインストーミング 6

論文を書くのがどこがおもしろいのか。

 私はよく母親の姿を思い出す。九州の貧しい田舎の出の母親は、死ぬ間際まで実家の畑の草むしりを朝早くからしていた。どこがおもしろいのか、何に駆り立てているのかさっぱりわからないが、本人はそれで満足していた。草むしりをした後を振り返って「今日も仕事をしたね」と自分に言い聞かせていたのだろうか。他方贅沢は一切しなかった。私も似たような血を受け継いだのかもしれない。あるいは体を鍛えることを旨とする人間は、毎日ジムに通ってバーベルを上げて満足するだろう。一部の人にはその種の満足で心を安定させるところがある。多分日本人には「草むしり遺伝子」みたいなものがあって、日本人にはそれを持つ人が多いのではないか。コツコツやるのが生きがいという人がいるおかげで日本の文化はこれまで保たれてきたのかもしれない。

 ということでブレインストーミングを続けていくうちに、論文の形が見えてきた。題名はイスコビッチのいう「解離的な転回」という言葉を引き継いで、「Dissociative Turn の再考」、ということにするか。What is implied inDissociative Turn”でもいいかもしれない。解離を連続体とみた場合、主体性をどう扱うかは非常に難しい問題であるが、これをどう考えるか。イスコビッチのいうDissociative Turn は何を意味するのか。彼だけが骨のある議論をしているからである。

まず頭に掲げるべきは、フェレンチの言葉である。

P227 The patient gone off into his trans is a child indeed who no longer reacts to intellectual explanation, only perhaps to maternal friendliness.

0.導入部 あるケースとして○○さんに協力をお願いしてみよう。その後の章立てとしては、

1.  主体をどう扱うのか。

2.  一者心理学か、二者心理学か、他者心理学か、対人格関係論 inter-personalities therapyか 

3.  それぞれの人格の創造性、独自性。

4.  攻撃者の由来と所在について

5.  解離スペクトラムについて

6.  解離か抑圧か。スペクトラムの中でむしろわかりやすくなる。

7. 交代人格は自己の一部か、あるいは他者か。

 実際の書き出しは以下のようになりそうだ。

解離性障害の扱いはいよいよ高まっている。しかしそれはまだ精神分析の中ではメインストリームではない。解離が持つ課題は今まさに精神分析に突き付けられているものの、その意味するものはさらに整理する必要があろう。イスコビッチのアイデアをさらに深めてみたい。特に人格をどのように扱うか、治療の主体は一人なのか、複数なのか、だれと契約を結ぶのか、という問題はまだまだ手つかずと言っていいだろう。少しでも整理に役立てたい。どうだろう。このくらいの謙虚さがなくてはならないだろう。そこで彼の論文

Itzkowitz, S (2015) The Dissociative turn in psychoanalysis. The American Journal of Psychoanalysis.75:145–153. 

を調べてみる。この論文にはいろいろ歴史的なことも書いてある。ホーナイも解離という言葉を使わなくても、そのプロセスを描いていたという。こんなことも言っている。The actuality of trauma during infancy and early childhood is acknowledged as a key factor.(147) でもこれを言うなら、この外部が中に入ったというプロセスも大事ではないか。
 そしてイスコ先生は大事なことを言っている。治療の目的はお互いを知ることであり、統合ではない、それはブロンバーグさんたちも同じだ、というのだ。少しは彼はわかっているようである。147ページの下に描かれていることは、各パーソナリティの声を尊重し、保証するという主張なのだ。イスコさんが挑発的な題で強調しているのは、”the goal of the working through process is not necessarily the consolidation of self-states into a single, integrated individual …  [But to help] the person understand and negotiate meaningful forms of relatedness with these heretofore unknown parts of herself. A sense of unity or wholeness, even if illusory…..

つまりはあたかもいくつかの主体を認めよ、ということだがはっきり言っていない。実際に臨床で出会う人はそれぞれが人格を持ち、関係性を持っているのだ。これをどう考えるのか。統一か。解釈はどうする? 治療契約は? こう考えるとこれは分析的な考え方を大きく問い直す機会にもなりかねない。そこで問われるいくつかの問題について論じたい。ということでまずはケースを提示してみる。