ところで精神分析の文献を検索するときに用いるPepweb で解離 dissociationを調べると、すごく上昇傾向にあることが分かる。2010から2020まで、2461, 2000から2019まで1629, 1990 から1999まで935, 1980から1989まで405本の論文が検索できる。ということは解離は確実に扱われるようになってきているのだ。問題はこのテーマをどのように扱うのか。そこでカギとなるのは、断片か、新しい人格なのかという例のテーマである。Howell, Itzkowitz の二人は共同執筆でたくさん書いているので、文献としてはとても大事である。
Howell,
EF, Itzkowitz, S. (2016) Is trauma-analysis psycho-analysis? In Howell, E. F.,
& Itzkowitz, S. (Eds.). (2016). The Dissociative Mind in Psychoanalysis: Understanding
and Working With Trauma. New York, NY: Routledge.
この論文でとても本質的なことを問うている。そしてトラウマ分析は精神分析たりうるかという問いの中で、無意識内容の追求よりは Neville Symington (2012) のrealization and process of becoming “who I am”に依拠するという。そして解離の場合には、DIDの治療は解離のバリアーを緩めることで、お互いを知ることだ、とある。the loosening of dissociative barriers to fully knowing oneself and one’s traumatic history.であるとまとめる。これは大筋としてはその通りであるが、技法的な問題は今なお残るのではないだろうか。Howell, Izkowitz 先生は続いて、「トラウマの遍在性と心の解離的な構造The Everywhereness of Trauma and the Dissociative Structuring of the mind」 という章(p.33~43)で、抑圧や無意識と解離の関連という、扱うに非常に手間のかかる問題について論じている。そして精神分析が無意識を論じる以上、解離を分析で扱うためには「解離的な無意識dissociative unconscious 」という概念が必要となろう、ということでそれを提唱する。「解離的な無意識とは私たちの意識のギャップにより特徴づけられる。しかしそれらの無意識はそのギャップにおける自己状態にとっては生きた体験としてThe dissociative UCS then is characterized by gaps in our CS experience. Yet the "UCS" experiences in these gaps continue to exist as living experience in that self-state.これは心の再概念化を必要とするだろう。それは異なるレベルにおいて存在する体験の筋により特徴づけられるのだ、This offers a re conceptualization of the mind as characterized by many different strands of experience existing on different levels of CS.