2020年7月25日土曜日

スターン、ブロンバークの解離 2


さてブロンバーグの解離とエナクトメントの関連性についての理論がある。こちらもとても面白く、画期的な議論である。ブロンバーグによれば、トラウマは私たちの人生で常に起きていることであり、一つの関係性、例えば母と子の関係の中で普段と全く一致しない情動や知覚が処理されなくてはならない場合に、解離が起きる、と述べる。その典型はトラウマというわけだ。そして解離の患者さんは葛藤を体験できない、といういつもの理論が出てくる。
しかし解離が葛藤なしに生じるという事ではなく、葛藤と解離は弁証法的な関係を有する、という。なんかよく分からないな。まあいいや。そしてこの解離された部分はサリバンの not-me に相当するものだというのだ。そしてこの not-me の部分がエナクトメントにより体験され、統合されると考える。
さてエナクトメントは基本的には対人関係において生じる、と考えるブロンバーグは、治療者によりエナクトされた部分は、患者により体験され、患者によりエナクトされた部分は治療者により体験されるという。この理論はあとで検討するが、少なくとも一つ言えるのは、解離されたものは依然として人の心の内側にあるということだ。ただしそれは象徴化されていないものだという。
スターン、ブロンバークの論文は、ここに述べた言説を何度も繰り返すことにより成立しているという感じだ。だから結局は解離は、たとえそれが常に対人関係の中であるとはいえ、一つの心の中だけで起きている現象と言える。
さてこの相互のエナクトメント、相互の体験とはどのようなことを意味するのだろうか。おそらく患者、治療者間に限定されるものではなく、ABの二人のいかなる組み合わせにも一般化できよう。AさんがBさんに対して愛憎混じった複雑な気持ちを持つ。(ただし葛藤的な気持ち、と言ってはいけない。自分は複雑な気持ちを持っているという事を知らない、という事を前提としなくてはならない。なぜなら葛藤がないことが解離の条件だからだ。)
AさんはBさんに愛情を感じている。ところがなぜかBさんに会おうという気持ちがわかない。後者はAさんに象徴化されていない、つまりそのように意識化されていないBさんへの嫌悪であり、それはBさんに接近しないという形で表現されているエナクトメントと考えよう。次にBさんの側から。BさんはAさんに嫌悪感を持っている。しかしAさんの元を離れようとしないというエナクトメントを示す。BさんがAさんに愛着を持っているという事は彼の頭には浮かばない。なぜならそれは象徴化されていないからだ。さてそんなBさんは自分に近づかないAさんを見て、Aさんからの嫌悪を体験している。Aさんが解離しているものをBさんは体験するというわけだ。一方Aさんは自分のもとを去らないBさんを見て「Bさんは私に愛情を向けている」と体験する。
さてAさんとBさんの関係が維持されるためには、例えばAさんはBさんとの関係を利用価値のあるものと感じているという事情があるなどの付加的な条件がなくてはならない。あるいはAさんはBさんからの接近を拒否することに罪悪感を覚えている、でもいい。さらにはBさんしか友達がいないので、Bさんと離れるといよいよ友達がいなくなってしまうから、Bさんと離れないでいるという事情があるかもしれない。
私はこのような関係は母子の間でよく見かけるような気がする。母親は娘を愛しているが、同時にその成長を阻むようなことをしてしまう。そしてその目的に全く気が付いていない。自分は純粋に娘を愛していると思っている。娘はその母親の振る舞いから母を憎む。しかしその母親のもとを結局は離れない。母を愛しているという事になるが、それは意識されない。娘の中でそれは解離されている。しかしそれは母親によっては体験されていることになる。「娘は私のもとを去らない。という事は私を愛しているのだ。」
私はこのブロンバークの理論はわかるのだが、ではこれが抑圧とどう違うか、と尋ねたくなってしまう。彼ならそれに対してこう言うだろう。「いや、抑圧なら、愛情と相半ばした憎しみは同時に体験されていて、その心に葛藤を起こしているだろう。」となる。しかしこれは程度問題ではないだろうか。むしろ解離されたものと抑圧されたものにはグラデーションが存在することになりはしないか。当人が解離されている気持ちをどの程度感じ取れるかによって、解離と抑圧の両極の間のどこかに位置する。しかしいずれにせよこれはことごとく一つの心の中の理論なのである。