ドネル・スターン、そして最近亡くなったフィリップ・ブロンバーグは米国の精神分析において解離理論を積極的に取り上げている分析家である。
スターンのよく知られた論文「the eye sees itself. dissociation, enactment, and the
achievement 2004」で彼の解離 dissociation の用い方を見ると、完全に古典的な精神分析理論からの考察という印象を受ける。
実はこの件はもう英文にしてある(投稿中)。
そこでこんなことを書いている。と言って1年前の原稿を取り出すと、けっこう書いているではないか!!! 我ながらよく書くなあ。
スターンによれば、解離はそもそも防衛的な過程である。解離は主としてトラウマの過程で考えられているが、耐えられない状況での自己防衛的なプロセスなのだ。Stern, 2009, p. 653」結局分析的な文献の調子は、このような防衛モデルである。そしてフロイトが「ヒステリー研究」の段階で持っていた解離に関する理論と極めて異なっている部分と、似ている部分があるのだ。異なっている点は、スターンが解離が防衛の役割を果たしているという立場を取るのに対して、フロイトは解離ではなく、抑圧が防衛においてメインな役割を果たすという点である。しかしフロイトの言っている抑圧と、スターンの言っている解離を同じものと見なせば、両者はかなり似通ってものになる。両方とも防衛として自動的に生じるというニュアンスがあるからだ。
さてそのうえでスターンとブロンバークが何を言っているのかをまとめると、結局無意識は、すでに形を成した内容が詰まっている、という考え方であるという事だ。
スターンはそれを真実に対する対応物モデルcorrespondence view of truth と呼ぶ。スターンたちの主張は、フロイトは無意識にある意味が、意識化されると考えたのに対して、「意味は意識化される際に生み出されるmeaning is created as it becomes conscious,」のだという。
ここら辺の主張はまさに現代的な思想を反映したものと言えるが、それが示唆していることはかなり意義深い。確かに無意識概念はこれでいいだろう。しかしこれがスターンらの文脈では解離に結びついているところが問題だ。あたかも解離されているものは形を成していないが、意識化される際に形が与えられるという。それはAさんにとって解離されているものが立ち現れる際の主観的な体験としてはわかる。しかし解離されているものは実は形や意味を既に与えられている場合が多い。ここが矛盾する点なのである。