2020年7月21日火曜日

解離における他者性と治療的な意味合い

解離性障害における交代人格の「他者性」について考えた場合、その治療的な意味合いはかなり変わってくる可能性がある。特に統合の意味合いがこれまでと異なってくるだろう。従来解離性同一性障害の治療目的の一つとして考えられてきた統合はその意味の大部分を失うことになるかもしれない。なぜなら従来は別人格は主人格が十分に表現されてこなかった部分を代弁しているものと考えられる節があったからだ。だからその人が完全な人になるためには統合が必要と考えられたのである。
このような考え方は、DIDを基本的にはトラウマ関連障害としてみなすという流れに一致している。例えばある治療期間のサイトから拝借した次のような文章を見よう。「トラウマを負った人はことごとく、その治療プロセスとして統合を考えなくてはならない。それはトラウマが生じたことを受け入れ、そのことをその人の個人的なナラティブに組み込み、それをフラッシュバックのような体験なしにアクセスできなくてはならない。Every individual who has been through trauma must integrate to some extent as part of healing. This means accepting that the trauma occurred, making it part of one's personal narrative, and making it accessible in a way that does not cause intense re-experiencing of trauma elements. https://did-research.org/treatment/integration.html
しかしこれは本当だろうか。これも心は一つというモデルに従えばそういうことになる。Aさんの心のどこかにトラウマa,b,c….. についての痕跡がある場合は、日常生活でもことあるごとにそれが引っかかってくるだろう。するとそれは何らかの形で取り込まれなくてはならないという運命にある。しかしbというトラウマはBさんという人格により体験され、cCさんによって体験され、しかもBCさんは、Aの活動中はほとんど寝てしまっているとしたら、その統合の目標はそのまま維持されるべきなのであろうか。
もちろんここで「寝ている」という表現自体が微妙であることは確かだ。無意識に抑圧されているものも「寝ている」と表現されうるかもしれない。しかしB人格がその体験もろともAにとって解離されているとしたら、それを統合する必要性はどこにあるだろうか。そして「他者性」とはいいかえればAの活動中にBCが互いに全くアクセスできないという状態として最も典型的な形で表現されることになる。