精神分析において他者性を論じようとしても、文献的にはかばかしいものはない。その中で使うことのできそうなものが、「もう一つのシーンanother scene」という概念である。フロイトはこれをフェヒナーの eine andere Schauplatz から引用し、夢はそもそももう一つのシーンで生じるといったという。そしてフロイトはこれは決して解剖学的な局所とは違うといった。ちなみにラカンはこの語に注目し、これを他者Other の概念に結び付けたとする。
ちなみにラカンによれば次のような分類が可能となる。いずれもアクティングアウトのことを言っているが、フランス語では行動に移すことPassage a l’acte と訳されることが多い。そしてラカンはこれは acting out と区別されるべきものであるという主張を行っている。
l Acting out これは依然としてそのシーンの中で生じ、象徴界での出来事である。
l Passage a l’acte そのシーンを出た、現実界での出来事である。
特にこの後者については、total identification with the
other and hence an abolution of the subject.だという。ラカンはどこまで考えたかわからないが、後者は完全に解離の話である。
さてこの理論と解離現象とは結構よく符合している。アクティングアウトで生じることを主体がどの程度把握しているかということはとても大切である。小文字か大文字かの区別もそれに深く関係していると考えられる。
さてこの問題といわゆるエナクトメントとの関係も難しい。ブロンバークなどによるとエナクトメントは解離と関係しているというわけだから、こちらとPassage a l’acte はより近いという関係にあるのだろうか。ブロンバークも解離で生じていることは象徴化されない、ということを言っている。これは果たしてどのような意味なのか。
ブロンバーグを引用してみる。秘密というものは、・・・自己が保持している主観的な現実が「翻訳の間に失われてしまった」という事情によって、「私ではない私 not me」とならざるを得なかった自己についての暗黙の記憶という形で情動的な経験を含んでいる。これらの自己-状態は、言葉によって意思伝達可能な状態にはないのだが、その理由は、人間関係の中で存在することを許されているようなある一つの「私」というものの全般的なあり方の中で、それらは象徴的意味を持つことを否定されているからである。」(P52)つまりこれは行動に表された場合にはラカンのPassage a l’acte ということになる。このような心の内容の在り方は否定しないし、それもまた解離dissociationであろうが、問題はもう一つのシーンで、そこではすっかり象徴化されている内容が出来上がっているという事態、すなわちDissociation という事態なのである。