2020年5月26日火曜日

ミラーニューロンの不思議 14


ところでこれほどミラーニューロンにこだわる一番の理由は、人格が備わるという現象に関して少しでもヒントを得たいからである。あるキャラクターを眺めているということは、そのキャラに備わった壮大な神経ネットワークが形成されることを意味する。そしてそれが無意識的に行われるとしたら、それはおそらくかなり上位に属するべきスーパーミラーニューロン(イアコボーニ)が関与しているのだろう。つまり個々の行動ではなく、そのキャラクターが行うであろう言動を全体的に統括するニューロンだ。人を見ているうちにその人の人格が宿るとは、この種の統括的なミラーニューロンが形成されることであろうし、そのようなミラーニューロンはほとんど人格のコア部分と言ってもいいだろう。問題はそこにおいて受動態として体験されたはずの事柄が、能動態としても形成されるという不思議なことが起きるということだ。攻撃者の取入れという現象を考えよう。
叩かれるという体験が、それ自身のミラーニューロンとは別に、「叩く」ミラーニューロンを形成する。自分が叩かれたのに、である。普通は叩かれたときは受動態としてのミラーニューロンがもっぱら形成され、能動態としてのミラーニューロンの形成は抑制されるであろう。叩かれそうになっている幼児は、普通だったらそこから逃れるような動作を身につけるであろうし、同時に殴り掛かったりはしない。それは逆効果を生むためもあってか抑制される筈なのである。ところが相手に対する同一化が強い場合にどうなるかというと、能動態としてのミラーニューロンの形成が同時に生じる。そしてそれはおそらく同じ運動前野上に生じることには矛盾が生じるために(なぜなら両者が拮抗して結果として混乱した運動しか生じないため)、運動前野の「別ルート」で生じるということなのであろう。それは別の人格状態でということにもなる。別の人格の形成は、このミラーニューロンの成立上やむを得ず起きることというのか?つまり私の提案は、ミラーニューロンの形成上の矛盾のために、別人格の形成が余儀なくされているのではないか。
そこでそもそも演技しているという状態はどうなのかを考えたい。ある人になり切って演技するとき、一種のダブルコンシャスが生じているわけであるが、おそらく二種類のミラーニューロンシステムが並行しているのであろう。一つは自己の体験、もう一つは別の人の体験という意識があるのであろう。ところが別人格の体験というのは、自分自身の体験としてなされているというわけである。例えば演技で架空のA子さんという主人公が子供に対して「ダメ!」と言ったとする。これは子供に対して「ダメ!」と言っている他者を見ている、というのとは異なる状況である。通常は他者を見ているときはミラーニューロンから運動ニューロンへの経路はブロックがかかっている。ところが演技の場合ある意味ではそのブロックを解除することで実際に「ダメ!」と言っている。これは実は高度のプロセスであり、それは「これは自分ではない、でもそうでないことにしなくてはならない」という頭を働かせているのである。
それに比べて解離の場合はある意味ではシンプルである。それは異なるミラーニューロンシステム、それもまっさらなものが働いている。なぜならAさんに「なっている」からである。その場合自分自身の考え方、感じ方との混線はあまり起こっていないのだ。