2020年5月23日土曜日

ミラーニューロンの不思議 11


ところでミラーニューロンがどうして運動性言語野に集中しているのか、ということについては面白い話がある。一つはある音を聞いた時、人の言語野ではその時の舌の動きを行う運動神経が反応をしているということだ。聞いた時に発音モードになっているということである。そしてそこにはブローカ野のミラーニューロンが関係しているというわけだ。つまりある音を聞いた場合、それを模倣する準備がすでにできているということだ。ここまでは驚かない。しかしそればかりではない。イアコボーニ(P133) によると、その音を聞いているときに、その発音に関連した運動野を抑制すると、その音を判別できなくなるという。
これは表情についても言える。ある表情を作るための表情筋を抑制するような仕掛けを行うと、他人のその表情を判別できなくなる。例えば眉を顰める表情を作ってもらう。そしていろいろな表情が示す感情を判定してもらう。すると不快な表情についてはすぐにそうとわかったが、笑顔はわかりにくくなる。つまり笑顔を自分で作ることが出来なくなるからだ。あるいは顔面筋を麻酔してしまうと、表情の読み取り全体が途端に悪くなる、など。味覚で言えば、鼻閉などでは物の味が分からなくなる、などはよく聞く。
実はこの種の実験は心理学ではしばしば耳にするし、私もあまり信用しなかった。老人の話を聞いた後の被検者は、腰を曲げて歩いて帰っていく、という類だ。でもミラーニューロンのことを真剣に考えると、これらの実験が案外間違っていなかったのではないかということが分かる。
言語において、ある音を識別するとは、それを自分でも真似て発声するという行為とペアになっている。それはミラーニューロンを介してそうなっているのだ。そしてその一部が抑制されると、それを聞いて識別するという部分も含めた全体の体験が成り立たなくなる。英語のrの音を理解するとは、運動野でもそれが「鳴って」いて初めて成立する。運動野が「鳴らなかったら」何かが違う、ということになるだろう。
そしてそれはおそらく視覚をも巻き込んでいる。rの発音をしている時の口の形を、別のものに置き換えた映像を見せると、別の音に聞こえる。この実験はどこかで読んだぞ。ということは体験はことごとくマルチモーダルだということになる。それもミラーニューロンを介して。
私はこのこととカプグラ症候群との関連で考える。ラマチャンドランがしばしば出す例で、母親の顔を見ても、母親そっくりの替え玉だと称する人の話だ。それは母親を見ても情動を起こす神経経路に外傷などで問題があり、何も感じなくなってしまうからだ。すると本物の母親ではないという結論に達する。つまり母親の顔が引き起こす情動も含めた神経活動の全体を待って、初めて母親を本物として体験するのだ。これら一連のことが意味することを考えていくと気が遠くなっていく。