私が好きな思考実験に、自分の名前を左手で書いてみる、というのがある。私は右利きなので、右手で字を書くのは容易だ。そこで左手で字を書くことなど想像できるのだろうか。目をつぶって試してみると、実際に出来ることが分かる。それも少し時間がかかって、苦労しながら。その時実際に文字を書いていなくても何となく腕がやんわりビリビリする。ミラーニューロンだけが興奮しているときはその様な感じだろう。
どうやって赤ん坊は現実と想像を区別するのだろうか、と問うことはだからあまり意味がない。何かを実行しようとするとき、必ず運動前野はすでに活動している。想像している段階とは要するに、その行為を実行する全段階として、常に体験されている。想像→実行は常にカップルしている。だから想像は、現実とそれこそ込みで体験されているのだ。ではなぜ運動前野で想像されるのか。それはそうすることで運動がスムーズに行われるからだ。コンピューターだったらプログラムが活動するといきなり実行である。ところが人間の脳は神経ネットワークを準備状態にして、「温め」る必要が生じる。これが想像の段階だ。
では自他の区別は? そこで模倣が登場する。一説によれば、マカクサルは出生直後から模倣するというから、かなり精緻なシステムが出来上がっているらしい。母親が舌を出す。子どもの運動前野の舌に相当する部分が興奮する、など魔術的としか言いようがないが、実際は自分も動きをしてみてみたものに近づけるということを行うという性質が本来備わっているとしか言いようがない。すると真似る、という行為の中にすでに自他の分化が起きている、ということだろう。真似るということが無意識的に生じている場合には、他者がある行為を行っているときに、自分はこれから同じことをしようとしている準備状態に似たことが、脳の中で生じる。脳はこの違いを感覚的に味わうだろう。運動神経にこのままゴーサインを送れば自分の手足が動くのか、それともその手立てがないのか。その感覚の違いから自他の区別は明瞭につくだろう。
同じことは感覚についても言えるかもしれない。腕をつねった時の痛みを考えよう。直接の痛み刺激は、表象を伴う。それはその痛みを想像したり予想した時に興奮する神経群によりもたらされる。自分が腕をつねられたときの痛みを想像するという体験と、他人が腕をつねられたときの体験の想像は、おそらく質的に似ているだろう。そして自分が体験する実際の痛みは、想像の体験と実際の痛みが重なる。ところが痛みを体験しているような他者を見ても重ならない。この体験の違いもまた自己と他者の区別の基本にあるのだ。このように、自分と他人、想像と現実といった違いは理論ではなく、実体験として与えられる、として、イアコボーニは前者の説を思弁的な「theory theory 理論説」として棄却するのだ。