第1章 はじめに - 揺らぎの理論はエキサイティング!
本書のタイトルは「揺らぎの理論とこころの理解」であり、最終目的は心の持つ幾つかの諸相について、それらを揺らぎという観点から考察することである。しかしそのためには一般論から始めなくてはならない。それはこころを含めてこの世に存在しているものはことごとく、揺らいでいるという事実である。
「この世に存在するもの」と私はサラッと書いたが、あくまでも現実世界に存在するものだ。さすがに抽象概念までも揺らいでいるわけではないから、ここからは除いている。少なくともこの世に実在する事物はことごとく揺らいでいるようだ。
もちろん例外もあるかも知れない。通常は物事の原則に従わない例を見つけ出すのは至難の業だからだ。ただこの世に実在するものすべてが結局は素粒子により構成されており、その素粒子自身が揺らいでいる以上は、このことはほぼ確定しているだろう。
読者の皆さんはおそらく超弦理論 super-ring theoryという理論をお聞きになったことがあるだろう。この仮説によれば、素粒子はさらに要素に分解でき、それはことごとく有限の長さの紐 string の振動状態により構成されるという。だから「この世に存在するものはことごとく揺らいでいる」というよりは「揺らぎ(振動)がこの世を構成している」というほうが正確なのかもしれない。しかしこの目に見えないレベルの揺らぎの話は別の機会に回し、もう少し私たちになじみのある揺らぎに話を戻そう。
自然界に存在する事物とは、たとえば石ころであり、空気であり、惑星であり、宇宙である。観測方法さえあれば私たちが目でみて確かめることが出来るようなものだ。そしてマクロ的なレベルでも「揺らぎ」を伴わないものなど見当たらない。最近はなんとブラックホールまで「見えて」しまっているから驚きであるが、これも絶え間ざるガスの噴出という形でそれらの中で、激しく「揺らい」でいることが分かっている。こうなるとあたかも揺らぐことが自然の理(ことわり)であるかのようだ。
そしてそれだけでなく、私達の心も揺らいでいるのである。
いま私は「それだけでなく私達の心も・・・」とまたもサラッと書いたが、これは「だから」ではない。心はこの世に実在する事物と同列に扱っていいかは難しい問題であるし、そうなると実在する事物が揺らいでいたとしても、こころもが揺らいでいる必然性はない。白状するならば、私は人の心も揺らいでいるらしい、ということに最近まで思い至らなかったのだ。そしてほんの数年前にこのことに気が付き始めた時、「でもどうして心まで揺らいでいる必要があるのだろうか?」と自分に問いただしたくらいだ。あるいは「自然物が揺らぐことと、こころが揺らぐことは全然別の事情ではないか? たまたま、ではないか?」と問いたいくらいであった。
でも最近考えるようになったのは、こころの揺らぎは、現実の事物の「揺らぎ」と実は深く関係しているのではないか、ということなのだ。こころはたまたま自然物と一緒に、ではなく、自然物の「揺らぎ」の結果として、必然的に揺らいでいるのではないか? それは端的に事物とこころを結ぶ「「脳や神経系が揺らいでいるからではないか、ということに思い至った。そしてそのように理解した時に、心の「揺らぎ」の性質がもう少しわかりやすくなるような気がしてきたのである。