2020年2月8日土曜日

「読む」を読む 4

 いろいろ読んでいて思うのだが、結局感情といってもその正体はわからず、メジャーな学者のかなりアバウトな仮説が通用したりする。その意味ではやはりダマシオ先生の概念だろうか(Damasio (2003) Looking for Spinoza) 。彼の「ソマティックマーカー」理論。昨日も紹介したが、もう少し深めてみる。
池田光穂先生(大阪大学COデザイ ンセンターの大変参考になるサイトに簡潔なまとめと的確な批判があったので、読んでみたい。(https://www.cscd.osaka- .ac.jp/user/rosaldo/070763somaticmarker.html) より。

ダマシオ(2005:x-xi)の簡潔で要を得た説明によると「感情(=情緒=情動)は理性=知性あるいは理[ことわり]のループの中にあり、一般に考えられているように感情は推論のプロセスを有無を言わさず邪魔するというよりも、むしろ助けているかも知れない」という仮説である。ただしダマシオ(2005:156)は、高度な知性と豊かな感情を併せ持ち情報処理をおこなう人間の生物の進化の帰結として、このループを、脳と身体の ループ(body loop)だけとみず、脳の中で身体に感じることを脳だけで推論する「そうであるかのような」ループ("as if" loop)などがあると、巧妙な説明もまた付け加えている。
 ところがダマシオのこの仮説は、情動と理性の相互連関——彼の表現ではループ——を証明するために、一旦操作的に、情動と理性の場——前者 は脳幹部・前脳基底部・扁桃体・前帯状皮質そして視床下部、そして後者は前頭前皮質とそれに連携する腹内側部を割り当てて——が「注意とワーキングメモリ」という機能を持つ背外側部という部分を媒介して、一種の機能の局在部位と連合というものを想定しているということである。しかしながらこの立論の 問題は、感情(情動)と理性=知性を機能的かつ対比的にわけ、それらが神経学的には相互に関係しているということを述べたに過ぎず、依然として感情と知性 が「一般に考えられている」ようなデカルト的二元論を前提にして、それらの連合をもって批判できたと考える、いささかマッチポンプ的な議論をおこなっているからである。自分の仮説を持ち上げるために、デカルトを引き合いに出し、さらに心身合一説をもつスピノザを持ち上げるかのようなタイトルの本 ("Looking for Spinoza." 2003)を出している点でもその疑念がなかなか晴れない。哲学史に馴染んだ人なら、ソマティックマーカーの議論のやり方は、松果体という「局在」を、背外側部を媒介とする「ループ」に置き換えた、都合のよい理論上の継ぎはぎのような心証さえ与えてしまう。 


 つまりDamasio の議論では、背外側前頭前野がちょうど中継地のような役割を果たしているということになる。前出の島の議論と似ているが、注目している部位が少し違っているということか。
  Damasio の研究でよく出てくるのが、Bechar との共同研究で、アイオワ・ギャンブリング課題の実験データから、前頭葉の前頭葉腹内側部 vmPFC の損傷で、ギャンブルの際のかけ方の決断に狂いが生じるということを示したという報告である。つまりその部分の損傷でソマティックマーカーが狂ってしまうというわけだ。私なりにいいかえるとこうだ。ギャンブルでの勝ち負けを繰り返すと、そのうちあるカードを選択する際に、虫の知らせがあるという。おそらくこのカードは損をする、というのを理屈ではなく体で記憶している。そしてそれは頭で損得を勘定して選択するというプロセスとは別に起きているというわけだ。