2020年2月9日日曜日

「読む」を読む 5

以下は池田先生の説も考え合わせたうえでの私の考え。

 ソマティックマーカ―説が唱えているのは、私たちがあることを意図的に決断(と思っている)するとき、それは純粋な理性的な判断ではなく、感情(や身体感覚)がそこに関与しているという議論だ。これは直感的にもその通りだと言っていいし、何もダマシオ先生が改めて唱えることさえないような気がする。
 たとえばAかBかのかなり重要な選択をしなくてはならないとする。熟慮して理性的にAを選択するとしたら、そうしたことについての自己肯定感や安堵感は必ず伴うはずである。「理屈から考えて正しい選択をしたんだ、あぁよかった」というわけだ。それはたとえ「感覚から言ったらBなんだけれど、理屈からはAだ」と言ってAを選んだというときにでさえ伴う感情であるはずだ。「やれやれ、感情や直感に流されずに正しい判断が出来た」と思うだろうからだ。ということは最終的には感情、ないしは快不快で私たちは選択を行っていることになる。というか感情のゴーサインが出ない限り、私たちは決断を行えない。(もちろん反射的、衝動的な判断や決断やここでは除外する。)どんなに自分にとって有利な、絶対に間違いのない選択肢としてAのボタンを押そうとしても、それに伴う言いようのない不安や不快感に駆られたとしよう。あなたは絶対にAのボタンを押せないはずだ。人間の体はそうできている。

 例えば私はAのボタンを押すことで私の身に危害は加えられず、結果的に自分の口座に500万円が振り込まれ、かつ自分の健康や安全が脅かされることがないと保証されているとする。自分でもそれは頭では理解している。それでもボタンAを押さないという状況を、私は考え出すことが出来る。もしそのボタンが高い櫓の上にあって、それを押したら足元の扉が開いてバンジージャンプで谷底に突き落とされるとわかっているとしよう。(バンジージャンプはしっかりとしたロープでくくりつけられ、絶対安全であるという保証を与えられていると仮定する。)あるいは口を開けたままの状態で、ボタンAを押すと口に大きな芋虫が放り込まれるとしよう(その芋虫は食用に無菌的に養殖されたものだと分かっているとする)。私は絶対にボタンAを押せないのである。
 このような極端な例を考えればわかるとおり、私たちは純粋に理性的な決断というのはできない仕組みになっている。必ずそこにはある種の直感、そしてそれを導く感情が背後で支えている。それは英語ではgut feeling(ハラワタ感覚)だ。すると私たちの運動、行為を決めているのは、感情、身体感覚だと言っていい。これを無意識とさえ言っていいのは、例えば将棋の棋士にとって、次の手は、大脳基底核に属する尾状核に由来するという研究もあるからだ(https://www.riken.jp/press/2012/20121128/)。
 ではある決断に伴う感情や身体感覚とは何かと言えば、過去に体験した快不快の身体的な刻印が影響しているということだろうし、本能に刷り込まれているかもしれない。例えばある人の姿が見えたときにその人を遠ざけたいという気持ちが働くとき、そこにはこれまでその人との関わりで持った快と不快の積分値が関係しているはずだ。(いつも表面的には優しい言葉を掛けられても、何度も陰湿ないじめを仕掛けてきた、あるいは結果的に尻拭いをさせられたという経験が蓄積されると、結局この人とはかかわりを持つべきでないということが身体感覚として刷り込まれるだろう。)しかしそのような経験が一切ないとしても、私たちはあるものを求め、あるものを忌避するのであり、これは生まれつき備わったものかもしれない。(私は虫を食べて強烈な不快を経験をしたことはないが、理屈以前に自分には選択できないことである。)
 この前者の例は、たとえばダマシオらの行ったアイオワ・ギャンブリング課題にも関係しているのではないか。動物だったら一度遭遇して危ない目にあった天敵には近づかないのは、体のレベルでその不快や恐怖が刷り込まれているはずだ。ところがその部分を使えない人の場合はそちらのインプットを欠いてしまうのである。