2020年1月20日月曜日

遊びと揺らぎ 2

遊びの原点に戻って少し考えたい。子供が積み木を積み上げる。34つならいいが、7、8個になると不安定になり、うまく上に載せていくことができずにガラガラと崩れる。子どもはその音に驚き、あっけにとらわれるが、また一から積み上げ始める。かなり高く積み上げた積み木が、最後の一つで崩れて再びバラバラに飛び散る。これを繰り返す。
ここで起きているのは、ある種の急激な変化である。そしてそれを自分が起こしているという能動感がある。この二つの要素がないと遊びは成立しない。行動心理学では心理学者 White が提唱した effectance motivation (効力動機)がこれに相当する。幼児は自分のちょっとした行動で世界が大きく変化して、大きな音がしたりものが壊れたりすることが楽しい。なぜ楽しいかといえば、おそらく適応的な意味があるからだ。子どもは(そしておそらく動物の子供も含めて)自分の行動で世界が変わるというパターンをマスターせねばならない。するとそれに快が伴うことで、繰り返し体験してマスターすることになり、自らの機能を高めていく。そしてそれがその個体の生存に役立つのだ。フロイトの Fort-Da でもよい。積み木遊びでもいい。これらはこの効力動機によるものだと考えるほうが自然だ。もちろんそれにより母親の別れを克服している、というフロイトの説も悪くない。というよりずっとそのほうが学者にはアピールするだろう。そしておそらくそのような治療的、辛さを克服するという意味もあるのかも知れない。ただしそこにはもっと単純で生物学的なメカニズムが働いているというほうが分かりやすいだろう。
子どもの積み木積みも、フロイトの Fort-Da も揺らぎを楽しむことだ、ということを言いたいわけだ。積み木はorder 秩序とdisorder無秩序の間を揺らぐ。糸巻は出現と消失の間を揺らぐ。でも両者が正反対の状態ではなく、一度消えたものがまた出現し、一度崩れたものがまた秩序を取り戻す、ということ、すなわち同じものが形を変えたに過ぎない、というのが揺らぎたる所以なのだ。そしてそれを知っているから積み木を崩すことができ、また糸巻をベッドの下に放り込むことができる。自分で崩したものを救出でき、救出したものを壊す、という出来事を生み出すということがたまらなく面白く快につながるというのが遊びの本質なのだろう。
 ところでこう考えると、アスペルガー的な遊びがどのように違うかも自然と理解されるだろう。
砂の粒が手の間からこぼれ落ちるのを飽きずにみる。そして繰り返し繰り返し手で砂を掬い、落ちるのを見る。
私はこれが病的だとは考えたくない。むしろこれは特殊な能力といえる。それは砂粒の落ち方は一回ごとに微妙に異なるからだ。それこそ揺らぎの極致といえる。そしてそれを味わう特殊な能力が彼らには備わっていると考えることができる。さらにそれを調節しているのは自分の手であり、指である。つまりそこに効力動機も加わっているのだ。しかし一般人はその砂の落ち方の微妙な違いを敏感に感じ取り、感動するだけの能力がないのではないか。臨床家はそれを常同行為と呼ぶであろうが、それは失礼ではないだろうか。それらは彼らにとっては決して一回ごとに「同じ」ではない可能性があるからだ。
例えば万華鏡を考えよう。筒をくるくると回すと、次々と新しい模様が目の前に広がる。特別視覚情報に敏感でなくてもそれに感動する人は多いだろう。これを常同行為とは呼ばない。しかし発達障害の人が万華鏡よりは砂の落ち方に興味を示すとしたら、彼らにはその種の刺激はあまりにも情報が大きく、むしろ不快を起こさせるのかもしれない。彼らにとっては積み木がガラガラと崩れるときの音に耐えられないのかもしれない。だから彼らの感受性に丁度あった程度の情報の揺らぎに惹かれるのではないだろうか。
発達障害においては、情報が通常より過大に与えられる、という風に考えると、彼らの「拘り」にも別の見方ができるだろう。ある発達障害の方が、アサリの貝殻の模様の個体差に魅せられたという。そして海岸で貝殻を拾ってきて、家にたくさんのアサリの貝殻のコレクションを持っているという。アサリの模様はどれ一つとして同一なものはなく、微妙に揺らいでいるのだろうが、それに感動するためには極めて微妙な感性が必要となるだろう。ちょうど昆虫に魅せられる人が、種の違いによる羽の模様の微妙な違いに魅せられるのと同じだ。
このように考えると、「イナイイナイバア」の面白さも、別の見方ができる。イナイイナイバアは、発達障害の人にとっては、揺らぎどころか大波過ぎて、情報過多でとても楽しめるような代物ではない、ということではないか。