2020年1月21日火曜日

遊びと揺らぎ 3


ウィニコットと二重の現実性の間の揺らぎ
遊びについて精神分析の立場から精緻な論述をしたのがウィニコットである。彼の理論を追っていくと、遊びと揺らぎの関係がもう少し明らかになるだろう。
ウィニコットは子供が遊びを通じて現実を受け入れていくプロセスについて、きわめて説得力ある論述をした分析家である。彼の論述は非常に緻密で論理的だが、決して現実から遊離していないのが特徴といえるだろう。常に現実に起きている母子を頭に浮かべている。だから信頼がおけるのだ。
ウィニコットがその代表作「遊ぶことと現実」等で提出した「移行対象 transitional object」の概念はまさに彼の思索の結晶であり、画期的であった。乳児は生後23か月になると、「原初の“自分でない所有物 not-me possession”」(Winnicott, DW. 1971,P2)すなわち移行対象を作り出し、それと遊ぶようになる。それは毛布やデティ・ベアのぬいぐるみなどである。そしてこれが主体に象徴と他者性をもたらす、という。
この移行対象についての以下のウィニコットの説明は、私にとってはそれでも少し「ほんとかな?」と思うようなところはあるが、それなりに納得がいく。それはこんな説明だ。乳児は、大切なもの、例えばお母さんの乳房が、最初は自分の一部であるというファンタジーを持つ。それはいつもそこにあり、自分がおっぱいを欲しいと思うときに差し出されるから、自分の一部だと思い込む。それはちょうど自分の親指をしゃぶろうとすればいつでもそこにあるようにそこにある。だからそれは赤ん坊にとっては最初は客観的な対象として認識されない。
ここで重要なのは、「オッパイ欲しい」という欲求とそれの満足に最初は隙間がない、ということだ。あるいは少なくともウィニコットはそう考えた。ところが徐々に赤ちゃんは気が付く。どうや乳房は何時も望んだ時にはすぐにそこにあるというわけではなさそうだ。「そこにあるはずの乳房がそこにない…。」これは赤ちゃんにとって深刻な体験である。厳しい現実との直面だ。しかしそこで赤ちゃんはそこから「対象を創り出す、考え出す、引き出す、考え起こす」という力を発揮するという。それが人間の人間たるゆえんだ。そしてそれが移行対象であるという。お母さんがいない時に、その代わりに触ったりだっこするもの、例えば縫いぐるみを見出し、それでとりあえず母さんにだっこされたことにする。足りない分は想像力で補う。つまり移行対象は母親(や彼女の乳房)の不十分な代替物ということになるのだ。
さてこの文脈でウィニコットが、そしておそらく多くの私も含めた分析関係者が痛く注意を向けるのは、自分がこうだと思い込んでいる対象イメージと、現実の対象の在り方のギャップだ。ズレ、差異、と言ってもいい。そしてウィニコットはこのズレこそが心を生むとさえ言っている。それがいわゆるポテンシャルスペース、可能空間だ。「主観的な対象と、客観的に知覚される対象の間の、つまり自分の延長線上と自分でないものの間の、可能性のある空間」(W.1971, p135)これは主観世界と客観世界の間の揺らぎと言っていい。そしてそれを形として象徴しているのが、移行対象ということになる。
皆さんは移行対象と言えば、すでにものであって、揺らいではいないで確固としてそこにあるではないか、と思うかもしれない。例えばぬいぐるみがどうして揺らいでいるのか、という主張だ。しかしぬいぐるみは揺らいでいる。それはある意味ではただのもので、ある意味では愛すべき対象なのだ。
代わりにピカチュウドーナッツ
これを書いていてひとつ思い出した。昔ピカチュウの顔のたい焼きがあった。それをピカチュウ好きの子供にあげたら、彼はそれを食べられない、という。エ、たい焼き(正確に言えば、ピカチュウ焼き)なのに。でもそれを食べるとかわいそうだというわけである。確かにそうだ。おそらくこの種の食べ物は売れないだろうし、それはピカチュウ焼きは、単なるモノであって、しかも同時に「ピカチュウ」でもあり、つねにその間を常に揺らいでいるからだ。時間軸上を揺らいでいるから、ある瞬間はかぶりつきそうな気がして、でも次の瞬間にそれが出来なくなってしまうのである。