2020年1月2日木曜日

脳科学と心のエッセイ 1


 未だに私たちに巣食う心身二元論

私は実はデカルトの誤りとされる「心身二元論」の意味が本当の意味でよくわかっていない。そういう時はもう表題にして書いてしまうと、じっくり考えなおすことができる。もともと求められている原稿の題は「脳科学と心について、自由なエッセイ」ということだ。そこでこのテーマで論じることにしよう。
興味深いことであるが、私はしばしば、心の問題を脳の問題と交えて話すと、相手からの当惑の視線を受ける。私としてはごく自然に、脳のことに気配りをしながら心の話しているつもりなのだ。深刻な鬱状態を体験し、希死念慮が高まっている方の話を聞いているとき、医師としては自然と、セロトニンやドーパミンといった脳内の神経伝達物質のイメージが付きまとう。私たちが個々の患者さんの話を聞き、その人の人生上に起きていることに共感しつつも、その人の処方薬を選ぶことにあまり手間取らないのは、そのような目でも見ているからだ。このことはおそらく例の心因性、内因性といった議論とも関係する。心の問題を心因性のものと考えるか、内因性のものと考えるかは、ちょうどうつや不安を訴える人について、心の側から理解すべき問題か、脳のプロセスとして理解できるのか、という二つの考え方を同時に持つことを意味する。しかし多くの人にとって、これらを同時に考えることがとても難しいようである。
ちなみにひょっとしたらこれは心の問題と脳の問題という二つの文脈の齟齬ないしは相性の悪さとは限らないかもしれない。例えば精神分析的な考察をしているときに、「この患者さんには認知のゆがみが…」とか「行動療法的なアプローチがいいかもしれません」というような話をすると、場が一瞬でシラケてしまい、サーっと皆がヒイていくということもある。つまりある文脈になじみのある用語や概念が入ることの違和感ということかもしれない。この文脈の齟齬、ということはもう少し後になってもう一度論じたい。
個人的に言えば精神分析的な考察をしている際に、私の頭にしばしば浮かぶのはトラウマだったり、報酬系だったり、脳科学だったりするのだが、これらは分析の先生方とケースを検討するときなどは、ほとんど禁句と言っていい扱いを受ける。しかしこれらのタームは、私がどきどき大学関係で出会う外国人の分析家にとっては、「あ、それね」ということで当たり前のように受け入れられるという体験がとても多い。私が過去に比較的よく話す機会があったのは英国の中間学派の先生三人、ユング派の先生二人で、いずれもかなり名の通った方だが、ことごとく脳科学やトラウマ理論に通じていた。そしてトラウマ理論に通じるということは解離の理論にも詳しいということになる。
 昨年しばしば交流する機会のあったRudi Vermote 先生は、英国の精神分析家ビヨンの研究でも有名な方だったが、彼は精神分析に関する講演の中で急に、「これはデフォルトモード・ネットワークに相当する」などとおっしゃった。Defalut mode network は脳科学の話である。人の心がいわばアイドリング状態になっているときの脳の活動パターンのことだが、それまでの精神分析の話とは全くかけ離れた話題である。(もちろん論理的には繋がっていた話だが。)それを突然持ち出すような、そんなノリである。もちろん彼らは精神分析の論文を書くときなどに、そんな話題を唐突に取り上げたりはしない。しかし口頭での発表などで、あるいは学術的な会話なので、それらの脳科学的な基礎的な概念について口にすることを彼らはいとわないし、彼らのカバーする範囲の広さをそれによって示しているという印象を受ける。精神分析の時に脳の話はご法度、というのは日本だけの現象ではないか、と私は思うのである。