2020年1月3日金曜日

揺らぎと心の臨床 3

治療者の揺らぎとしての「決めつけない態度」

揺らぎの心を持つということは、物事に対する決めつけの態度を取らないことである。なぜならすべての事柄に正解も真実もないからだ。
ここでよく私たちが良く引く一つの例を挙げよう。
コップに水が半分ほど入っている。それを見たある人は、「たった半分しか入っていない」、とがっかりし、別の人は「半分も入っている」、と喜ぶだろう。またさらに別の人は特にのどが渇いていないのでコップの水に全く何の関心も示さないかもしれない。ではこれらの反応のいずれが正解だろうか?
もちろんこのような例を示された私たちはすぐにでも答えを見出すことができるだろう。
「どれか一つが正解ということはありません。それはその人の感じ方、その人の置かれた状況に依存するでしょう。」
その通りだ。その意味で答えは文脈依存的である、ということもできるだろう。コップに半分水が入っているという事実は物理的な描写でしかなく、それに意味づけを行うのは意識を持った存在だけだろう。(もちろん人間だけではない。のどが渇いたワンちゃんなら、それを見て大喜びするだろう。)
この問題はすでに「意味の揺らぎ」として前の章で論じたことでもある。ある言葉が様々な意味を含みうることを理解する力を意味の揺らぎと表現したわけだが、それはBさんという女性の発した言葉についてであった。今ここで論じているのはある事実についてであるが、ここにも意味の揺らぎが存在する。そして治療者が決めつけない態度とは、ここで述べているような事実の持つ意味の揺らぎに相当する。治療者の決めつけない態度とは、ある事実や出来事の持ちうる様々な意味を把握し、それらにあらかじめ価値判断を加えないことなのである。
ここで一つ疑問が生じてもおかしくない。コップに半分の水を見てどのような意味を見出すかは、文脈依存的であるとした。すなわち治療者自身がどのような文脈に身を置くかで、結局は何らかの意味や価値を与えていることになるのではないか。治療者は「決めつけ」をせず、価値を一切持ちこまないということは、治療者は心を持ってはいけない、と言っているのに等しいのではないか?
 実はこの疑問は正しい。ある意味では治療者は自分の価値基準、ないしはバイアスはしっかり持っていなくてはならない。治療者はコップに半分の水を「なんだ、半分だけか」と感じる傾向にあるとしよう。彼はそのことをよく自覚しておく必要がある。するとクライエントが「なんだ、半分だけか」という反応をしたときに、「その通り、正解!」という感覚とは異なるものを持つ必要がある。それは、「半分も入っている」という体験ではなく(私のように)それとは反対の考えを持つ人なんだな。私自身の体験とすり合わせながら理解できるだろう」。そしてそこにはコップに半分の水に対する二つ(あるいはそれ以上)の意味の揺らぎを体験しつつ、それでも「コップにたったこれだけの水…」と感じる自分を客観視しているという部分があることになる。決めつけない態度は、決めつける自分を、揺らぎの視点を持って客観視している、ということなのである。