この文脈に関連して、Frommer という分析家の考察はとても示唆に富んでいる。(Frommer, MS(2005)Living
in the Liminal Spaces of Mortality. Psychoanalytic Dialogues, 15:479–498) 彼はある同僚(分析家だろうか?)が深刻ながんの宣告を受けたのちに、真の心の自由を獲得して行った経過を報告している。それは私たちが十分に正当なものと信じることが出来るような境地として描かれている。死の運命を受け入れることが私たちを解放し、自由にするという事は実際に報告されている。先ほど述べたHoffman も同様の例を挙げている。彼は不治の病に侵された子供の親たちの体験を描いているのであるが、彼らもまた死を前にしたある種の自由の境地について描いている。また高僧の中には真の意味での解脱を遂げたとみられる人々もいる。それらの境地を私たちは否定することは出来ないであろう。
そこでここからは私の見解である。私はこの問題に関してフロイトのリビドー論に依拠して考える。フロイトは喪が完結した時点でリビドーは自由を獲得するという。フロイトはリビドーを「私たちが愛するキャパシティ」(1916, p. 359)とも言いかえている。そしてそれが一人の人(すなわち故人)に向けられていた状態から解放されていくのが喪のプロセスであると彼は考えた。私たちが人生において出会うことがらを愛し、楽しむことが出来る能力は、実は常に死すべき運命を想起することで損なわれてしまう可能性がある。それをフロイトは喪の味見 foretaste of mourning」と呼んでいる。私の仮説はそれに関連している。人生はもしリビドーをすべて投入したならばきわめて快楽的なものである可能性があると考えることが出来よう。フロイトが示唆している通り、私たちが死ぬことに全く無頓着であるならば、人生はいくらでも楽しめるのかもしれない。しかし問題が一つある。その楽しみは刹那的な形でしか体験できないのであり、なぜならば私たちは子供時代に死の運命を知った時から、喪の先取りの侵入をあらゆる瞬間に受けているからだ。幸運なことに、死は頭から去ることが出来、私たちはリビドーに再び満たされる。しかしまた襲ってくる。そしてこの揺らぎこそが、つまり「愛することのキャパシティ」としてのエネルギーの行ったり来たりが私たちの人生の喜びと悲しみの鍵となっているのである。