2019年12月6日金曜日

死生学 推考 8

おそらく死の受容の仕方や程度は、人によりさまざまである。そしてその振動の幅はひとによっても、そしてその人の人生における段階によっても異なるのであろう。重要なのはこのようなダイナミックで揺らぎの性質を持つことが私たちの在り方そのものであり、また感情の源でもあるという事だ。静的でダイナミズムを欠いた状態で感情は決して生まれないのである。ちなみにフロイトは後の著作の中で、リビドーの量そのものではなく、それが上昇したり低下したりする時のテンポやリズムが快や不快の決め手であると述べているFrommer やホフマンが述べた、死の十分な需要というのも、決して静的な状態というよりは、ある種の最適なテンポやリズムを表現しているのではないだろうか。
ともかくフロイトの儚さについての概念は彼のダイナミックな心の理解につながっており、それはホフマンの弁証法的構成主義により詳述された(1998)。ホフマンが示唆したのは、儚さtransience (Vergänglichkeit) という単語を用いたことで、彼は彼なりのダイナミックで揺らぎにみちた心のモデルを提出したという事だ。フロイトの儚さの議論やホフマンの弁証法的な構築主義の理論が強調するのは、喪や喪失の痛みや、無意味さや空虚さの感覚は、喜びや価値の前提条件であるという事だ。残念ながらフロイトはそのことについてtrensient な述べ方をしただけで、決して詳述はしなかったのである。
さてここからは日本文化の含みについて述べたい。私はフロイトのこれまで見た記述を日本文化という視点から眺めてみたいのである。言うまでもなく両者の関連は明らかである。日本文化においては明白で固定されていて、静的なものに価値を置かないという伝統がある。日本においては、どっちつかずのものに親和性があり、日本において美的なものはいずれも刹那的なものである。そうでないと、私たちは「もののあわれ」を感じないのである。フロイトの「移ろいやすいから美しい」という議論が同僚の詩人には受け入れられなかったとしても、日本人にはおそらくこの理屈に同調する人がそれだけ多いだろう。北山修先生もまさにこの問題について扱っている。彼によれば日本人は自分たちの運命を儚いものに投影する傾向にある(北山, 1998)。それらの儚いものとはホタルや線香花火などである。松木邦裕先生は「不在の在」を論じ、そこにないものが逆説的にその現前性を示すという点について論じている(松木, 2011)。私は最近になり、日本の文化を受け身的で秘密主義的であると表現した。それは隠されたものにより深い意味を付与する。それは谷崎潤一郎(1934)の「陰翳礼讃」により表現された。
ここで私の意見を述べるならば、この心性は日本人にとっての春の風物詩である「花見」に典型的に表されていると考える。毎年春先になると日本列島の各地に見られる桜の木が一斉に花をつける。人々は桜の木の下に繰り出し、談笑し、酒を飲む。そしてもちろん桜の花を愛でる。しかし桜の花の命は短く、せいぜい二週間しか持たない。そしてその淡いピンクの花びらが雨のように散ったり、川面の一面に広がったりする。人々は桜の花の季節があっという間に過ぎ去ってしまうがためにそれを愛でるというところがある気がしてならない。日本人にとっては儚さの価値は時間の中での希少さである Transience value is scarcity value in timeというフロイトの言葉が身にしみいるであろう。実は驚くべきことに(まあ、文脈からすれば驚くにはあたらないのであろうが)、この「無常について」のエッセイでフロイト自身が花に触れている。「たった一晩だけ咲く花は、それだけで愛でる価値が少ないとは決して言えない」(P.359)。私の考えでは、フロイトは日本の桜のことを言っていたのである(嘘である)。