2019年12月4日水曜日

死生学 推敲 6


フロイトはこんなことを言っていたとも言われる。死とは「人生のすべての目的だ the aim of all life」と。人は常にこのことを考えていなくてはならない。人は人生を自然から借りているからだという。しかし他方では、フロイトの「人は死んだことがないから、死の想像はしようがない」という指摘の方がよく知られる。フロイトは私たちが死が怖いと言うときは、それとは別のものを恐れているのだと言う。たとえばそれは、見捨てられ、そして・・・・もちろんフロイトなら言うであろう、「去勢への恐怖。」しかし他方では、私たちは意識しているよりはるかに、死により支配されていると言う主張をしていて、これは自らの考えに矛盾していることになる。結局彼が死を本当にどの様に捉えていたかは議論が多いところなのだ。
 ちなみにこの問題に関してBlass という分析家は、以下のように指摘する。(Bliss (2014) On ‘The Fear of Death’ as the Primary Anxiety: How and Why Klein Differs from Freud. Int. J. Psycho-Anal., 95(4):613-627.) 

メラニー・クラインは、人間の不安はすべからく死への恐怖に還元することができるといった。つまりフロイトとまったく逆だったのだ。「不安は死への恐怖に由来する。つまり死の本能が不安の根源にあるのだ。」というのがクラインの主張だった。ただしこの主張もまた、彼女自身の別の主張と矛盾していることがわかる。なぜならクラインはフロイトの唱えた死の本能を支持する数少ない分析家だったのだ。だから彼女にとって死は本能でこそあれ、恐怖の対象ではなかったはずである。彼女の中では根源的な死への恐怖と死の本能の混同があったとも考えられるのだ。
精神分析の二人の大御所が死に関して様々な矛盾した考えを持っていたことは意義深い。それだけ死をどのように捉えるかは、一筋縄ではいかない問題なのだ。
 では私がここで何をいいたいかと言うと、喪の作業とは連続的なものであり、「ここまででおしまい。もう亡くした人のことは考えません」という単純なものでは決してない、ということだ。喪の作業は、これまた揺らぎである。やっとさよならが出来た、と思えた次の瞬間には、どうしてもその人の死を受け入れられないという無念さが押し寄せてくる。この揺らぎを経て人は喪の作業を行っていくが、それは漸近線のように完了の方向には向かうものの、決して100%終えることは出来ない。人は決して物事を完全にあきらめ切ることが出来ない。そう思えた瞬間が時々訪れるというだけである。
私が死に関する理論に関して大きく依拠しているのがI.Z.ホフマンだが、彼はこう言っている。「コフートやエリクソンのような主張、つまり死に恐怖を抱くということは、その人が生への適応を十分遂げていない証拠だ、という主張は間違いである。」つまり喪の作業、ないしは死への諦念を完了することが精神の成熟であるという考え方はおそらく浅薄なのだ。それは私たちの生が有する本来的な揺らぎの本質を理解したものとは言えない、というわけである。