2019年12月3日火曜日

死生学 推敲 5

フロイトが「無常について」(1916)でおこなっていた主張を思い出そう。「美はやがて失われるのなら意味がない」、という詩人の友人に対して、「いや、消えていくからこそ価値があるんだよ。」と言ったのだ。むしろ「だからこそ」美しいというのだ。見納めと思うから美しい。やがてなくなるという感覚が私たちの美的感覚を研ぎ澄ます。英語のこんな表現を思い出す。Smoke‘em if you got em 最後の一服を楽しむなら今だよ。難事の前の一瞬の安らぎ。これが最後の一服と思う時こそ最高の味わいを体験するとも読めそうな気がする。そしてこれはちょうど人生にも言える。今日が人生の最後の日と思い、生きよ。世界が変わって見えるだろう。儚さはそのまま生き方の哲学をも含んだ深い議論だ。
 ちなみにフロイトのこの言葉にはちょっと問題があると私は見る。彼はいわば「桜が散るという十分な覚悟が出来ているならば、本当の意味で桜を味わえるのだよ」と言っているのだ。その心は「人は諦めが肝心、それが出来ないから苦労するんだよ。」しかしフロイトは別のところでは「人はあきらめることが出来たら苦労しない」とルー・アンドレアス・ザロメに対する書簡の中で言っている。それに「無常について」ではこんな呟きのようなことも言っている。「花はどうせまた来年になれば咲くのだから、何をクヨクヨするのだ。」
 フロイトのこれらの呟きから感じられるのは、美がやがて失われていくことの悲しさを一生懸命否認、防衛しているようにとれるのだ。「期待しなければ失望はしないんだよ」と言いながら、どうしても期待してしまう自分に警句を発しているところがある。失われていく美を嘆く詩人に、実は共感しているところがある様なのだ。
だから本当はフロイトはこの儚さは、美しさと寂しさの混淆であることを否認していることになるのではないか。というよりは美しさは失う悲しさの予期により成立する、と言うことを明言、ないしは自覚してはいなかったというわけだ。フロイトはおそらくこのエッセイをサラッと書いたために、(書きっぱなし、という感じである。書き方そのものが「儚ない」のである。) いろいろ本音とかつじつまの合わないことが露呈しているのだ。しかしこの「儚さ」の議論は揺らぎの議論だというのが私の主張なのだ。目の前に見ているものが現実であり、かつ未来において失われるもの、という二つの体験の行き来、という意味である。
さてこの揺らぎのある心とは常に分からなさを包含していると言っていい。一瞬先に何があるかわからない。だから予想外のことが起きることを予期している。揺らぎとはそういうことで、それは「あれかこれか」でも「あれもこれも」ではない状態 (北山、2019) なのである。桜は蕾でも散ってもいずに、今日どうなっていくかわからない、そして私の人生も今日何が起きるかわからない(でもそれをおそらく楽しめる)から面白いのである。でもそれは純粋な楽しさではなく、どこかに寂しさや悲しさを含む。明日が分からないのは、今日まであったものが失われてしまう可能性を含んでいるからなのだ。
フロイトはちゃんと諦めていないからダメなんだ、ということを言っている。でもフロイトには失礼だが、それは理想論過ぎる、というのが一般的な反応ではないだろうか。美しさは、失われてしまうことを十分に受け入れた場合に本当の美しさがわかる、要するに美が失われるのを嘆くのは、諦め切れていないからだ、というのがフロイトの主張だが、そもそも諦め、とはいったいなんだろう。諦めとは期待を抱かないことだろうが、人間に期待を抱くのをやめることなどできるだろうか?期待を抱くとは、未来において自分が体験することを想像して喜びを感じることだろうが、それをなくすことなど本来できるだろうか?そしてこのことはまさに死生観についても言えることだ。フロイトがここで言っていることは、要するに人間にとっての生死の問題についてそのまま当てはまると考える。だからこそ「喪の作業への抵抗」などという言い方をしているのだ。ところが自らの死に対するフロイトの姿勢は葛藤に満ちていた。