いわゆる三島事件(1970)は非常に議論が多く、またいろいろ想像力を掻き立てる事件であった。三島由紀夫は著名な作家であり、ノーベル文学賞の候補にも上がったほどの人物であった。彼は葉隠の愛読者であり、信奉者でもあった。彼は第二次世界大戦まで日本が持っていた伝統的な価値観を熱心に説いた。特に彼は日本国民が天皇を崇拝し、それに従う文化を称揚した。彼が晩年に発表した「葉隠入門」には、死を覚悟することがその人の精神の最高度の成熟を意味し、それは人の至高の自由の行使であるとしたのだ。そしてそれから3年後、三島は実際に日本の平和憲法に反対し、日本人が再び天皇を中心とした社会を復古することを呼び掛け、それが受け入れられないと見るや、昔侍がしたような儀式化された形での切腹による自殺を決行した。三島は一見葉隠に述べられたような死の覚悟を持ち、最高の自由を行使したかのようである。
揺らぎとダイナミックな心、静的な心
フロイトの無常と死生観について触れた際、人の死の受け入れには非常に大きな個人差が存在するということを述べた。死の完全なる受容を達成したと思えた次の瞬間には、私たちはそのことを忘れて仕舞っているし、ちょうどその逆のことも起きている。私がここで改めて提案したいのは、人の心のダイナミックで揺らぐという性質が感情の源であるということである。そしてフロイトの後期の概念はそれを示唆しているのである。そしてそれは日本文化における無常や儚さの概念とも非常に近いことがわかる。
この最後の部分ではダイナミズムが失される危険についても触れてみたい。
心の力動、ないしはダイナミズムという概念は古くもあり、新しくもある。フロイトは19世紀末に心の在り方としてのダイナミズムを考案した一人である(Ellenberger, 1970)。ダイナミックな心を近代において切り開いたのがフロイトであり、ユングであり、ジャネだったのである。心のダイナミズムは現代的な考え方では揺らぎや振動や複雑系の理論とも関連し、そこには私たちの中枢神経系の在り方も含まれる。揺らいでいるということが、むしろ私たちの心や体の健康度の指標であるということは少し意外かもしれない。それは血圧や脈拍や体温の揺らぎについても言えることだが、それはつまるところ私たちの有する中枢神経系の神経細胞の発火の持つ揺らぎへと帰着する(Northoff, 2016)。
私たちが喜びや悲しみと言った情緒を体験するときは、私たちの心に力動が存在し、その自由さや柔軟性を有し、それらの感情が結果として生じることを示しているのだろう。その意味では喪のプロセスはいかにそれが高いレベルで達成されたとしても、それは依然として儚さを前提としているということになる。
私たちはダイナミズムやゆらぎがなくなってしまった場合の心の在り方を想像することも出来よう。それはフロイトが仮説的に考えた喪の完遂ということである。私たちはこれをある種の静的で安定した状態であると考えることが出来るが、そこにはもはや感情や感覚はないだろう。私たちがここで思い出すのは、フロイトの「大洋感情 oceanic feeling」という概念だ(Freud, 1927)。それはフロイトによれば「永遠で、限りがなく、境界がない」(p. 64)ということになるが、そこでは心は母親の子宮に回帰し、母との完全なる合一を達成することになる。その状態はいかに理想化され、喜びに満ちた状態であると想像されても、それ自身は空虚で意味を持たない可能性がある。フロイトが考えた自己愛の状態も、それが第一次であろうと第二次であろうと、同じような状態であると考えることが出来る。