第3章 揺らぎと死生学
心に関する揺らぎの議論は、結局どこに行くかわからない私たちの心の「酔っぱらいの歩行 drunker’s walk」という性質を理解し、解明するものでもある。行き先のわからない、それは私たちの心のいい加減なあり方とも言えるのであった。
すでに第○○章でも触れたことだが、精神分析学は心を揺らぎのない、いい加減さを許容しないものとして捉えていたところがあった。そして私もそこから出発した。私は1982年に正式に精神分析のイニシエーションを受けた。つまり精神分析セミナーというものに通って、当時の精神分析の大家であった小此木先生の指導の下にフロイトを読み始めたのである。
フロイトが描いていた精神分析の世界については、揺らぎといったものは問題にされなかった。むしろ表面的には揺らぎに見えるような、いい加減で予想もつかない心の動きにある確固たる法則が見られるという事を示していたのである。これは私にとってはとても心強いものであった。心の動きという一見つかみどころのないものにも一つ一つ法則や根拠があると聞いて、それに興味を示さないほうが不思議なくらいだ。そしてその様なフロイトの考え方を見事に示していたのが1900年に発表された「夢判断」だったわけである。フロイトはそこで夢の内容(おそらく彼自身が見た夢がかなりを占めているといわれていますが)を事細かに、物理学や数学者が行うような雰囲気で分析して、無意識内容を解明しようとしている。読んでいて見事だともいえるし、少し退屈したり、半信半疑になったりもする内容である。
このフロイトの考えは、喩えているならば、ラプラスの悪魔の世界観だといえる。1700年代の終わりのフランスの学者だが、こんなことを書いている。
もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。
— 『確率の解析的理論』1812年
この様な考え方を心にも当てはまるとしたら、精神分析家は患者さんのちょっとした行動の意識的、無意識的な動因がどこかにあり、それは理論的に導くことが出来ることになる。私がこの考えに少なくとも26歳からの数年間は夢中になったことは、そしてそうなることが特に当時の教育を受けた若い精神科医が信じることとしてさほどおかしなことでなかったとしたら(事実私はこの考えを精神分析の先生に説明しても、特に真っ向から否定されることはなかった)、今でもこの考え方はある程度は有効なのだろう。ちなみに、これはすでにどこかに書いているのだが、頭が非常に硬かった私は当時精神分析の権威と目された先生に訊いてみた。「5分遅れたことに、常に無意識的な意味を見出す、というのが精神分析の方針なのですね?」するとその先生はこう応えた。
「いや、常に、というわけではない。5分遅れたことに無意識的な意味がない場合もあるさ。」
「では5分遅れたことに無意識的な意味があるかないかは、どうやってわかるんですか?」その時の先生の答えを私は覚えていないが、想像はできる。こんな感じだ。
「分析家はその初学者の顔を見て、『やれやれ』と思った。『そこに無意識的な意味を見出すか否かを見極めるために必要なのが、教育分析を含めた分析のトレーニングではないか。まだ彼は基本的なことが分かってないようだな。』」
ところがそれから35年後、私は「患者さんが5分遅れるのも、揺らぎだよね。」などと言っているのである。私の精神分析音痴はすでにこの頃から始まっていた可能性がある。