2019年11月28日木曜日

揺らぎと快楽 推敲 2


ビブラートは揺らぎか?
ちなみに揺らぎと快楽についてのテーマを考える上でまず頭に浮かぶのが、器楽や歌唱の際のビブラートのことである。昔ブラスバンドでトランペットを担当した時のことである。一級上のK先輩が、実にすばらしい音色を奏でていた。私はK先輩のようにきれいな音を出せるにはどうしたらいいかを常に考えていた。すると彼の音は、他のブラスバンドの部員がだれもしなかったことをしていたことに気が付いた。それは彼がビブラートをかけていたという事である。単純な音の連続には決して表すことのできない表情を与えるビブラート。これはいったいなんだろう? まさに音の揺らぎの美的効果を体で教わった体験だった。
ちなみに私はK先輩にどうしてビブラートをかけているのか、いったいどうやってかけているのか、といろいろ聞いたことを覚えている。ところがK先輩は頑なに「自分がそんなことをやっていない!」と否定するのである。しかし彼がよく練習の合間に歌謡曲やムード音楽を吹いている時には、それが美しく揺れているのは確かなのだ。ところがK先輩は頑なにそれを否定する。私は自分でトランペットのビブラートをかける方法を見つけるしかなかった・・・・。
私はその頃ブラスバンドの中で指導に当たっていた音楽のT先生に少しかわいがられていたのを覚えている。練習熱心だし、ちょっとはうまかったのだろう。K先輩の弟分として見られるようにもなっていた。しかしその私がビブラートの練習をしているのを見て、苦々しい目で見られるようになったことも覚えている。確かにクラシックでは、弦楽器をのぞいてビブラートは普通は使わない。ブラスバンドではトランペットなどはパパーン、という華やかな金属音を鳴らして貢献し、オーケストラでもトランペットの旋律を聞いても、ムード音楽で聞かせるようなビブラートのかかった音は聞かれない。私はそのうちビブラートをかけるのは不良のやること、という意識が湧いてきた。それでK先輩も頑固にビブラートをかけていることを隠していていたのだろうと思う。
ちなみには、そのシンセサイザー研究の天外伺朗氏は、スピーカーの前で羽を回したり、スピーカー自身を首振りさせるなどをすることにより、心地よく聞こえるようにするという事を早くから行っていたという。そこでそれを電子的に生み出そうとしたが、なかなかはじめはうまく行かなかったという体験を書いていらっしゃる(天外伺朗、佐治晴夫 宇宙の揺らぎ・人生のフラクタル(PHPビジネスライブラリー、2000年)。つまりあまり機械的につくられた揺らぎはかえって美しさを損なうという事だろうか。歌唱法に関する書物などを読むと、ビブラートはそれが意識せずに、自然とかけられることに意味があるのだ、だから美しいのだ、という記述にも出あうが、その真偽は私にはわからない。しかしその主張が言わんとしていることは、器楽や声楽で旋律の美しさを表現する過程で、ビブラートは自然と備わってくるとしたら、それが美しく心に響くから、ということがその理由であり、それ以上の理由はないということである。つかり音の揺らぎは私たちに心地よく感じるというのはもう、人間が本質的に持つ性質である、としか言いようがないことになる。

いわゆる「1/f揺らぎ」について
 ここでいい加減さとの関連で、いわゆる「1揺らぎ」の概念について紹介しておかなくてはならない。揺らぎの中でも特別な性質を持つと言われるのが「1/f 揺らぎ」である。これを事実上発見し、広めたのが日本の武者利光先生という学者である。ここで f  とは周波数 frequency を意味し、「1揺らぎ」とは「パワーが周波数に反比例するような揺らぎ」という事になる。するとfが小さい、つまり周波数が小さくゆっくりした波ほどパワーが強くなるような波、「低周波の方がパワーが強くなるような波」と説明される。
1/f 揺らぎ」として例に出されるのが小川のせせらぎやそよ風などだが、たしかにこれらは、キーンという高い音などは混じっていてもその量は小さく、低音はそれだけ大き意という性質を有する。私は個人的にはオーケストラを考える。高音のバイオリンやピッコロや、トランペットなどの音は、コントラバスやチェロなどの低音に支えられることで心地よい音楽となる。弦楽四重奏にはチェロなどの低音部が欠かせないが、たとえばピッコロ四重奏などは(聞いたことはないが)あっても聞いていて居心地が悪いのではないか。
ここですでに聞き心地の話に入ってしまっているが、実は「1/f 揺らぎ」の面白いのは、しばしばそれが聞いた時の心地よさ、癒し効果と結び付けられるからだ。こうなるとこの種の揺らぎが途端に商業的な価値を伴ってくるわけだが、ある専門家によれば、(吉田たかよし著の「世界は『揺らぎ』でできている」(光文社新書)自然界に「1/f 揺らぎ」は満ち溢れているものの、それが癒し効果を発揮するかについてのエビデンスは十分でないという。