2019年11月21日木曜日

揺らぎと精神分析 2


「自由連想」がそもそも揺らいでいた・・・

フロイトの打ち立てた精神分析理論の基本原則の一つとして「自由連想」というものがある。患者は寝椅子に横になり、心にふと思い浮かんだ内容を、恥ずかしいとか罪の意識を感じる、などの気持ちを排除して語り、取り留めもなく連想を浮かべてそれを口にしていくことを要求される。そうすることで無意識的な心理過程を見いだしていこうとする手法だった。それにより心の底に深く抑圧されている葛藤や願望を読み解いていくことが目的だったのである。この手法は精神分析では現在でも用いられ、治療の重要な手段となっている。
精神分析家になることを目指す訓練生は、まずこの自由連想を自分自身が体験する必要がある。つまり何年かの分析治療を自分が受けることが必須の条件なのである。そして私も訓練生としてカウチに横になることで、この自由連想を体験することになった。ところがこの自由連想、いざ実行しようと思うととても決して「自由」にはいかないことがわかったのである。その自由連想のむずかしさは、おそらく実行したものにしかわからないかもしれないが、ひとことで言うならば、何が「自由」なのかが分からなくなってしまうということだ。
そもそも心に浮かんだことを語ろうとして体験するのは、「心にはいくつかの内容が同時に発生する」ということなのだ。そのうちのどれを捕まえようとしても、なかなかつかまらない。それはちょうど泡が水面に浮かんでは消えるようなものなのだ。
ある日カウチに横になった私はふとオフィスの窓に目をやった。外にはカンサス州の緑の景色が見える。この季節は自分の中では一番好きだ。でも景色のことを言ってもしょうがないか・・・・などと言う考えが浮かぶ。そして私は「しまった!」とふと気が付くのである。これらはもうすでに自由連想が始めり、私はそれを口にすることを要求されているということなのである。しかし時間はもう刻々と過ぎ、それらを口にする時間は失われてしまったのだ。
この自由連想の体験は、人の心(少なくとも私の心)に浮かぶことは、ちょう度沸騰しかけの水のように、浮かんでは消え、浮かんでは消える泡のようなものであり、あるいは風にはためいている旗のように、さらには小川の流れのように、決してひとところに留まらず、揺らいでいるということだったのだ。しかもそれらは言葉の形を必ずしもとっていない。単なるイメージだったり、音だったり、記憶だったりする。つまりその連想のうちのどれを捕まえて言葉にするとしても、そこに一定の選択や創作が入り込んでしまうようなものだ。「自由連想は不自由連想である」とある分析家が喝破したが、まさにその通りであり、そのような心の性質は自由連想を行おうとする試みにより気づかれることになる。心は常に揺らいでいるから、決してそのものを捉えることが出来ない、というのが私の精神分析修行の初めの体験だったのである。