2019年10月11日金曜日

はじめに 推敲 1


「揺らぎと心」と題して、心を揺らぎという観点から説明し、理解したい。しかしそのためにはおよそこの世に存在しているものは、ことごとく揺らいでいるという事実の説明から入る必要がある。
「この世に存在するもの」と私はサラッと書いたが、あくまでも現実世界に存在するものだ。つまり抽象的な概念は除いている。さすがに抽象概念までもことごとく揺らいでいるというわけではない。たとえばユークリッド幾何学における「点」は揺らいでいるだろうか?「点」とは「位置以外のあらゆる性質を持たないもの」と定義される。ベクトルと異なり、「点」は大きさとか方向性とかは持たないし、もちろん質量などない。そして当然ながら、決して揺らいではいない。なぜならもし「点」が揺らいでいたら、その存在条件である位置を失ってしまうからだ。このように抽象概念なら揺らがないものなどいくらでもある。早い話が「揺らがないもの」という概念が示すものは「揺らがない」のである。
 でもこの世に実在する事物はことごとく揺らいでいるようだ。例外があるかどうかは知らない。この世に例外を発見するのは至難だからだ。ただこの世に存在するものすべてが結局は素粒子により構成されている以上、それが揺らいでいることはほぼ確定しているだろう。と言ってもかなり特殊な意味での「揺らぎ」なのだが。素粒子論の中でも
超弦理論 super-ring theory にという仮説によれば、素粒子はことごとく有限の長さの紐 string の振動状態により構成されるからだ。だから「この世に存在するものはことごとく揺らいでいる」というよりは「揺らぎ(振動)がこの世を構成している」というほうが正確なのかもしれない。この目に見えないレベルの揺らぎの話は後に回すとしてもう少し私たちになじみのある揺らぎに話を戻そう。
自然界に存在するものとは、たとえば石ころであり、空気であり、惑星であり、時空である。観測方法さえあれば目でみて確かめることが出来るようなものだ。マクロ的なレベルでも揺らぎを伴わないものなど見当たらない。最近はなんとブラックホールまで「見えて」しまっているから驚きである。(写真(省略)は М87銀河の中心にある巨大ブラックホールだが、もちろんこれも絶え間ざるガスの噴出という形で激しく「揺らい」でいる。あたかも揺らぐことが自然の理(ことわり)であるかのようだ。
そしてそれだけでなく、私達の心も揺らいでいるのである。
いま私は「それだけでなく私達の心も・・・」とまたもサラッと書いたが、これは「だから」ではない。心はこの世に実在する事物と同列に扱っていいかは難しい問題だし、そうなると心が揺らいでいる必然性はない。というより私は人の心も揺らいでいるらしい、ということに気が付き始めた時(ほんの数年前のことである)も、「でもどうして心まで揺らいでいる必要があるのだろうか?」と問いたいくらいだった。あるいは「自然物が揺らぐことと、心が揺らぐことは全然別の事情ではないか? たまたま、ではないか?」と問いたいくらいであった。
でも最近考えるようになったのは、心の揺らぎは、自然物の揺らぎと実は深く関係しているのではないか、ということなのだ。心はたまたま自然物と一緒に、ではなく、自然物の揺らぎの結果として、必然的に揺らいでいるのではないか? そう問い出した時に、心の揺らぐあり方がもう少しわかりやすくなるような気がしてきたのである。

周りを見渡してみる

先ほどブラックホールにまで言及してしまったが、目線をもう少し近くのものに戻し、身の回りを見渡してみよう。街角を眺めれば、木の枝も、煙突からの煙も、旗も揺らいでいる。空の雲もゆっくりとではあるが揺らいでいる。どれひとつとして一つ所にとどまってはいない。
もちろん揺らぐどころか、一定の方向に動き去ってしまうものもある。雲の動きだってそうかもしれない。あるいは季節が過ぎ去ってしまうも、揺らぎという感じはしないかもしれない。しかし空気は循環し、今過ぎ去っていった酸素の分子は何年か後にはここに舞い戻ってくるだろう。あるいは過ぎ去っていく夏は、また来年は戻ってくる。結局長い目で見ると、ある同じような繰り返しを行っていることがわかる。
「揺らぎ」、とは英語では fluctuation (フラクチュエイション)である。水面が揺らぎ、風に揺れて木の葉も揺らぐ。英語でもそんな意味だ。普段ならだいたいひとところにとどまっているはずの物事が、時間の経過を追っていくと細かく、ないしは大きく揺れて、再びもとの位置に留まるような現象を私たちは「揺らぎ」としてとらえている。大体同じところに戻ってくるというところがポイントで、その物事のだいたいの位置は定められている。大地震の後に余震が続き、いわば大地の揺らぎがしばらく治まらないことがあるが、大体は時と共にそれは収まり、大地は静かになる。(もちろん地震計には体感できないような微小の「揺らぎ」は観測され続けるだろう。)
しかしそれは本当の意味での揺らぎの理解ではない。揺らぎは実は「スケールフリー」である。つまり揺らぎの程度を測る目盛り(スケール)など、あってないようなものだ。どんな微小なものも、どんなに巨大なものも揺らいでいる。縮尺をどんなに変えても同じような景色が見えるような地形のようなものだ。
ただ大まかな原則としていえるのは、小さなものほど揺らぎの幅も小さく、速さも途方もないということだ。また大きなものほど揺らぎの幅は大きく、ほとんどとまっているとしか思えないようなゆっくりとした動きを見せる。
だから「小さな地震もあれば大きな地震もある、でもやがては治まる。揺らぎは一時的なものだ。」という見方は甘い。マグニチュード1以下の極小地震なら、ほとんど常に起きている。大きな地震ならめったに襲ってこないが、将来もっともっと大きな地震が来て「これが大地の本当の揺らぎだったのだ!」と私たちは思い知らされるかもしれない。ただし地震に関して言えば、マグニチュード8以上の地震は数百年に一度という頻度になってしまうために、正確な観察は出来ないようだ。でもおそらく地球が生まれてからの45億年の間に、マグニチュード12 程度の地震はあったかもしれないではないか。定義からするとそのような地震はマグニチュード8  程度の大地震の1000倍のエネルギーであり、またその頻度は数万年に一度ということになる。
実は記録上はこれまで確認された最大の地震はマグニチュード9.5チリ地震(1960年)で、これ以上の規模の地震は実測でも地質調査でも発見されていないという。つまり大地の揺らぎがスケールフリー、といっても私たちが体験しうる大きさには上限があることになる。ただしはるか昔に巨大隕石が地球に衝突してその一部がちぎられて飛んでしまい、そのようにして月が生まれたときの衝撃を「地震」の中に含むのであれば、マグニチュード20くらいの地震はあったことになるだろう。
話を戻す。ともかくも「揺らぎ」は自然現象にいくらでも見られ、いわばごくありふれた現象と言える。しかしこの「揺らぎ」がなぜ現在これほどまでの関心を集め、またいわゆる「複雑性理論」にとって重要な意味を持っているのだろうか? あるいはなぜ現代まで、私たちは揺らぎに関心を持たなかったのか。揺らぎこそ存在の普遍的な性質といっても過言ではないほどなのに、である。
 私は「揺らぎ」現象の面白さは、理屈ではなく感覚的なものと考えている。だからこの「揺らぎ」の面白さを感覚的にわかっていただくところから出発したいと思う。そのために私が最初にこの概念に出会って心を惹かれたいくつかの揺らぎの例を出してみよう。その前にこの「揺らぎ」のめんどうな「」は、ここからは外すことにする。) 

●株価の揺らぎ 

私が今から20年ほど前に、最初に揺らぎの不思議さや面白さを感じたのは、株価の変化についての興味であった。まず以下の図[省略]を見ていただきたい。これは高安 秀樹先生の  高安 秀樹() 経済物理学の発見 (光文社新書、2004)から取ったものだが、同様の図はいくらでもネットで探すことが出来る。左右では時間のスケールが違う。左は数か月間の間のある株価の変動であり、右はそのうちの数週間分を取り出して拡大した際の株価の変動である。(もちろん縦の時間のスケールも調整してある。) そして左の図の直線に近いと思われる部分を拡大しても、やはり波打っていることを示しているという図である。揺らぎは「スケールフリー」だといったのはこのことである。)
私は株の売買などの投資をまともにしたことがないので経験に基づいて語ることは出来ないが、おそらく投資家の方なら、この揺らぎに特別の思いを持たれるだろう。株価の少しの上昇、下降は、大勢の人がわずかの間に行ったその株の売買を反映している。特定の個人にとっては、株を買った直後の上向きの揺らぎは儲けを、下向きの揺らぎは損失を意味することになる。そしてそこで株を売るか、買うか、あるいはそのまま持っているかの判断は、その後の揺らぎがどの方向に向かうかによって決めればよいのですが、決して誰も正解を教えてくれない。そしてそれだけにその揺らぎの方向が気になるのだ。私たちはよく思う。
「こんな風に時間とともにギザギザに推移して来ている。ということはこのぐらいの幅でそろそろ上向きかな?」
おそらくそうなるかもしれない。しかし株価は時には予想以上に大きい幅で上向きに動いたりする。そしてそれ自体が今度は少し大きな揺らぎを形成していくのだ。つまり揺らぎは小さな揺らぎと大きな揺らぎの複合体のような動きをしているのである。そしてここが規則的な振動との決定的な違いだ。そして面白いのは、時間のスケールを大きくしても、小さくしても、依然として株価は「同じように」揺らいでいる。(何度も繰り返すが、これが「スケールフリー」ということだ。」つまりそれは同じ程度の揺らぎ方を示す。これは実は私たちが通常考えるランダムで規則性のない動き、というのとは決定的に違う。ランダムならひと月ごとの株の上下は、一年とか10年のスケールで見れば平坦にならされているはずだ。ところがそうならないのが、揺らぎの実に不思議なところなのだ。 
このスケールを大きくしても小さくしても、結局揺らいでいる、という性質は、別の章で論じる「フラクタル」という概念と関わってくるが、揺らぎの大きな特徴である。そしてその特徴は心理学的には「未来は予測できそうに見えて、出来ない」と言い換えることができるのだ。